心のデボーション6041
「而してマケドニヤ及びアカヤに在る凡ての信者の模範となれり。」 Ⅰテサロニケ1:7 大正文語訳聖書
「こうして、マケドニヤとアカヤとにいる信者全体の模範になった。」 口語訳聖書
「教会の模範」
「マケドニヤの教会」は困難な状況にあるエルサレム教会をよく助け、パウロの宣教を愛の献金をもって支える模範的な教会であった。(ロマ15:26 Ⅱコリント11:9) この「マケドニヤとアカヤとにいる信者全体の模範」となったのはテサロニケ教会であった。テサロニケ教会は「多くの患難の中で、聖霊による喜びをもって御言を受けいれ、わたしたち〔使徒パウロたち〕と主とにならう者となり」、 その信仰は「マケドニヤとアカヤとにいる信者全体」に伝えらられたのである。(Ⅰテサロニケ1:7) 「よき教会の証し」によって「よき教会」がつくられる。「模範τύπος」は「型、原型、見本」の意である。
(心のデボーション6041)
心のデボーション6042
「ああ神よしかの渓水をしたひ喘ぐがごとく わが霊魂もなんぢをしたひあへぐなり」 詩篇42:1 明治元訳聖書
「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。」 口語訳聖書
「吸う力」
たいていの花は切ってすぐに水に入れると、かえって水を吸わない。まだ茎に水が残っているからである。そのうち、吸う力も弱くなってしおれてしまう。切ったら一晩そのままにしておきく。すると花は渇いて水を飲みたがる。そこで水につけると、ぐんぐん水を吸うようになる。時々放置され、たましいが渇くに任せられるのは、神を慕い、恵みを吸う力を失わないためかもしれない。
(心のデボーション6042)
心のデボーション6043
「荒野に呼はる者の聲す、「主の道を備へ、その路すぢを直くせよ」』 と録されたる如く、」 マルコ1:3 大正文語訳聖書
「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と書いてあるように、」 口語訳聖書
「すると天から声があった」
「荒野で呼ばわる者の声がするφωνὴ」、「すると天から声があったφωνὴ」。(マルコ1:3,11) バプテスマのヨハネは「荒野で呼ばわる者の声」であった。地に叫ぶ声に天も応じて声を発する。
(心のデボーション6043)
心のデボーション6044
「この故に我えらばれたる者のために凡ての事を忍ぶ。これ彼等をして永遠の光榮と共にキリスト・イエスによる救を得しめんとてなり。」 Ⅱテモテ2:10 大正文語訳聖書
「それだから、わたしは選ばれた人たちのために、いっさいのことを耐え忍ぶのである。それは、彼らもキリスト・イエスによる救を受け、また、それと共に永遠の栄光を受けるためである。」 口語訳聖書
「牧師の妻の顔」
牧師の妻は信徒から、誰からも愛され聖母マリヤのように慈悲深い人というイメージを投射されやすい。そして、牧師の妻は、強くその期待に応えようとする。しかして、柔和で穏やかだが、どこか生気に乏しい、いわゆる「牧師の妻の顔」が生まれる。信徒が望むのは、自分の顔を見失わない「牧師の妻」ではないか? 牧師の妻にとっても、信徒にとっても、聖母的イメージにつき動かされないで自分を生きることが内的成長をうながす。「牧師の妻の顔」に一役買うのは牧師かもしれない。
(心のデボーション6044)
心のデボーション6045
「ヱホバは地のはてまでも戰闘をやめしめ弓ををり戈をたち 戰車を火にてやきたまふ。汝等しづまりて我の神たるをしれ われはもろもろの國のうちに崇められ全地にあがめらるべし」 詩篇46:9-10 明治元訳聖書
「主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」 口語訳聖書
「どちらが大きいか」
イソップ寓話にこんな話がある。「二人の男が神様について、どちらが大きいか、テセウスかヘラクレスかで言い争っていた。それを聞いた神様は彼らに腹をたて、それぞれ自分を小さいといった相手の土地に対して復讐をなさいました」。(「イソップ寓話集」44 山本光雄訳 岩波書店1942/2より) この神々は本物ではあるまい。しかし、この話は現代的意味をもってはいないか?
(心のデボーション6045)
心のデボーション6046
「これに就きて我ら常に汝らのために祈るは、我らの神の汝等をして召に適ふ者となし、能力をもて汝らの凡て善に就ける願と信仰の業とを成就せしめ給はんことなり」 Ⅱテサロニケ1:11 大正文語訳聖書
「このためにまた、わたしたちは、わたしたちの神があなたがたを召しにかなう者となし、善に対するあらゆる願いと信仰の働きとを力強く満たして下さるようにと、あなたがたのために絶えず祈っている。」 口語訳聖書
「強く満たして下さるために」
「善に対するあらゆる願い」が果たされるのは、「人の働き」によるのではなく、「神の約束」が「満たされるπληρόω(満期になる、実現する、成就する、全うする、為し終える、完全にする、完成する、果たす、成し遂げられる」ゆえである。そのために神は私を召された。
(心のデボーション6046)
心のデボーション6047
「汝ら貪れども得ず、殺すことをなし、妬むことを爲れども得ること能はず、汝らは爭ひまた戰す。汝らの得ざるは求めざるに因りてなり。」 ヤコブ4:2 大正文語訳聖書
「あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。」 口語訳聖書
「うらやむ」
他人が持っているのに、自分は手に入れることができないのはつらいところもある。そこから「うらやみ」がはじまる。日本語の「うらやむ」は「うら(心)やむ(病む)」から来ている。他人を見て、そのようになりたいと心が病むのである。聖書は人殺しや争いや戦争が、この心の病からはじまると見抜く。「うらやみ」と「貪欲」が結びつくと、手におえない。
(心のデボーション6047)
心のデボーション6048
「ユダヤ全國またエルサレムの人々、みな其の許に出で來りて罪を言ひあらはし、ヨルダン川にてバプテスマを受けたり。」 マルコ1:5 大正文語訳聖書
「そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。」 口語訳聖書
「罪の告白」
「ユダヤ全土とエルサレムの全住民」が、続々とユダの荒野のバプテスマのヨハネのもとに集まり、「自分の罪を告白」した。(マルコ1:5) 「告白するἐξομολογέω」は「ἕξ+ὁμο同じことを」+「λογέω言う」からなり、自分の内なる声と同じことを言い現わし、神が私について言われるのと一致する。「罪の告白」は真実の罪以上でも真実の罪以下でもあってはならず、神の霊に導かれる告白である。この告白とともに、人は神に帰る。
(心のデボーション6048)
心のデボーション6049
「今日ありて明日爐に投げ入れらるる野の草をも、神はかく裝ひ給へば、まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ」 マタイ6:30 大正文語訳聖書
「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。」 口語訳聖書
「信仰薄き小さな者」
そうです。私は信仰薄き小さな者です。ですから今日だけの者として、野の花のように咲きましょう。それが私の神への装いなのだと知ったからです。
(心のデボーション6049)
心のデボーション6050
「汝等ヱルサレムの邑をめぐりて視且察りその街を尋ねよ汝等もし一人の公義を行ひ眞理を求る者に逢はばわれ之(ヱルサレム)を赦すべし」 エレミヤ5:1 明治元訳聖書
「エルサレムのちまたを行きめぐり、見て、知るがよい。その広場を尋ねて、公平を行い、真実を求める者が、ひとりでもあるか捜してみよ。あれば、わたしはエルサレムをゆるす。」 口語訳聖書
「アブラハムの祈り」
アブラハムはソドムとゴモラへの審判に対、もし「あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか」と祈り、その数を徐々に減らし、遂に10人の正しい人のところで、祈りを止めた。ソドムとゴモラには「町を救う10人の正しい人」もいなかったのである。(創世記18:22-33) アブラハムは10人で祈りを止めるべきではなかった。「もし、一人の正しい人がいれば」と祈るべきであった。「エルサレムのちまたを行きめぐり、見て、知るがよい。その広場を尋ねて、公平を行い、真実を求める者が、ひとりでもあるか捜してみよ。あれば、わたしはエルサレムをゆるす」というのが、アブラハムの祈りへの神の答えだったからである。そして、その「一人の正しい人」こそが「主イエス・キリスト」であった。
(心のデボーション6050)
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