心のデボーション602

デボーション1
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心のデボーション6011

「わが子よ惡者なんぢ誘ふとも從ふことなかれ」 箴言1:10  明治元訳聖書

「わが子よ、悪者があなたを誘っても、それに従ってはならない。」 口語訳聖書

 「誘惑」

「悪者があなたを誘っても、それに従ってはならない」。(箴言1:10) 「誘っても* פּתה *」は「接近して誘惑する」ことであり、「それに従う* אבה *」は「同意して喜んで誘惑にのる」である。「誘惑」は「接近してくるもの」と、それに「喜んで同意するもの」によって成立する。どちらが欠けても成立しない。

(心のデボーション6011)

心のデボーション6012

「汝は汝の兄弟の日すなはちその災禍の日を觀るべからず 又ユダの子孫の滅亡の日を喜ぶべからず その苦難の日には汝口を大きく開べからざるなり」 オバデヤ1:12  明治元訳聖書

「しかしあなたは自分の兄弟の日、すなわちその災の日をながめていてはならなかった。あなたはユダの人々の滅びの日に、これを喜んではならず、その悩みの日に誇ってはならなかった。」 口語訳聖書

 「問題の鎖を切る」

一難去ってまた一難と、難しい問題が次々に押し寄せることがある。問題をより難しく、複雑なものにするのは簡単だ。あえてかかわりを持たず「ただ、ながめている」だけで、状況はどんどん悪化する。問題の連鎖を断ち切るには、そんな自分を変える必要がある。些細なことを見過ごせない思考の固さを、もう少し柔軟にするとよいかもしれない。とらわれない心で解決方法をさがせば、必ず変化が見えてくる。

(心のデボーション6012)

心のデボーション6013

「凡ての苦・憤恚・怒・喧噪・誹謗、および凡ての惡意を汝等より棄てよ。」 エペソ4:31  大正文語訳聖書

「すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。」 口語訳聖書

 「悪意の芽」

「いっさいの悪意を捨て去りなさい」。「悪意κακία」は「劣悪、悪徳、邪悪」であり、「捨てる」は「持ち上げて、運ぶ」で「取り除く、除去する」の意である。あなたは自分から一切の「邪悪な劣悪」を畑から雑草を引き抜くように、自身から「持ち上げて除去しなさい」。たとえ、邪悪の種が芽を出したとしても、根が深くに伸びて地下茎のように張りめぐらすまえに、小さい芽のうちに摘んでしまいなさい。

(心のデボーション6013)

心のデボーション6014

「ヱホバよ歸りたまへ わがたましひを救ひたまへ なんぢの仁慈の故をもて我をたすけたまへ」 詩篇6:4  明治元訳聖書

「主よ、かえりみて、わたしの命をお救いください。あなたのいつくしみにより、わたしをお助けください。」 口語訳聖書

 「人を助ける」

機内で酸素マスクをしなければならない時には、まず母親が自分に装着し、次に子どもにつけさせるのが正しいという。人を助ける前に、まず「自分の状態」を確保する必要がある。しかし、それでは間に合わないことも少なくない。自分は息をつめて子どもにマスクを装着し、苦しくなったら二人で酸素を吸う手もある。自分が「良い状態」にないので人を助けられないというのは完全に間違いである。

(心のデボーション6014)

心のデボーション6015

「兄弟よ、智慧に於ては子供となるな、惡に於ては幼兒となり、智慧に於ては成人となれ。」 Ⅰコリント14:20  大正文語訳聖書

「兄弟たちよ。物の考えかたでは、子供となってはいけない。悪事については幼な子となるのはよいが、考えかたでは、おとなとなりなさい。」 口語訳聖書

 「未熟と成熟」

「悪事については幼な子となるのはよいが、考えかたでは、おとなとなりなさい」。(Ⅰコリント14:20) 「悪事κακία」は「悪意、邪悪」の意である。「考え方」はギリシャ語で「φρήν」、この語は元々、横隔膜を意味したが、「心、精神」をあらわし、「理解力、知力」の中心である。「悪事、邪悪」においては「幼児」のように未熟であれ、しかし「心、精神の判断力、理解力」においては「成熟した者」となれ。 

(心のデボーション6015)

心のデボーション6016

「夜の更のきたらぬに先だち わが眼はさめて汝のみことばを深くおもふ」 詩篇119:148  明治元訳聖書

「わが目は夜警の交代する時に先だってさめ、あなたの約束を深く思います。」 口語訳聖書

 「祈りの人」

夜回りは城壁に立って、夜通しの見張りに立ち、夜が明けて光がさしこむ時を待ち望む。祈りの人は「夜警の交代する時に先だってさめ、あなた〔神〕の約束を深く思い」つつ、時の見張りに立つのである。「わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます」。(詩篇130:6)

(心のデボーション6016)

心のデボーション6017

「我を信ずる者は、聖書に云へるごとく、その腹より活ける水、川となりて流れ出づべし」 ヨハネ7:38  大正文語訳聖書

「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」 口語訳聖書

 「貪欲」

人がどん欲になるのは不安だからであろう。魂が干上がってしまい、何とかして充足を取戻したいという思いが人を貪欲にする。しかし、どん欲に蓄えても魂の渇きを潤すことはできない。所有するのではなく、流れさせることだ。湧くのとどめているものが取り除かれれば、水は川となって勢いよく流れる。心の奥底に溢れ流れるものが感じられれば不安はなくなる。

(心のデボーション6017)

心のデボーション6018

「罪より解放されて義の僕となりたり。」 ロマ6:18  大正文語訳聖書

「罪から解放され、義の僕となった。」 口語訳聖書

 「義の奴隷」

「義の僕となったἐδουλώθητε τῇ δικαιοσύνῃ」は「義の奴隷になった」の意である。「義の奴隷」は「義に征服された者」である。以前は「罪の奴隷(「罪に征服された者」Ⅱペテロ2:19)」であったが、今は「義の奴隷」になった。

(心のデボーション6018)

心のデボーション6019

「今日ありて明日爐に投げ入れらるる野の草をも、神はかく裝ひ給へば、まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ」 マタイ6:30 大正文語訳聖書

「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。」 口語訳聖書

 「小さきこと」

「私」という存在の尊さ、価値、意味の美しさに気づかない者を「信仰小さき者」という。「私」という存在の「小さきこと」に出会うのが「大きな信仰」である。

(心のデボーション6019)

心のデボーション6020

「それ人のことは己が中にある靈のほかに誰か知る人あらん、斯くのごとく神のことは神の御靈のほかに知る者なし。」 Ⅰコリント2:11  大正文語訳聖書

「いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。」 口語訳聖書

 「お化けの面」

イソプの狐が役者の家で「お化けの面」を見つけ、「おお、これは何という頭だ! 脳味噌はもっていない」と言う。(「イソップ寓話集」 山本光雄訳 岩波書店1942/2) これは複雑な話だ。「仮面」に脳味噌がないのは当たり前だが、それを被った人間は鬼にもお化けにも、面によっては善人にもなれる。役者の家で「面」だけ見て、「能無し」と思った狐が愚かというものか。面のように中身の空っぽの人間はめったにはいない。役者の家に入ったら役者の道具を調べるべきだ。

(心のデボーション6020)

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