心のデボーション6001
「イエス言ひ給ふ『なんぢら教法師も禍害なる哉。なんぢら擔ひ難き荷を人に負せて、自ら指一つだに其の荷につけぬなり。」 ルカ11:46 大正文語訳聖書
「そこで言われた、「あなたがた律法学者も、わざわいである。負い切れない重荷を人に負わせながら、自分ではその荷に指一本でも触れようとしない。」 口語訳聖書
「負い切れない重荷」
律法学者たちは「負い切れない重荷を人に負わせる」が「自分ではその荷に指一本でも触れようとしない」。(ルカ11:46) 「負わせるδυσβάστακτος」は「背負いにくい、運びにくい」の意で、彼らはそれが分かっていても人に負わせようとする。自分で背負う気持ちがないので、人の痛みは無視できるのである。しかし、時に人は「負いきれない重荷」を与えるからこそ彼を「指導者」と思ってしまう。
(心のデボーション6001)
心のデボーション6002
「ギベオンにてヱホバ夜の夢にソロモンに顯れたまへり神いひたまひけるは我何を汝に與ふべきか汝求めよ」 Ⅰ列王3:5 明治元訳聖書
「ギベオンで主は夜の夢にソロモンに現れて言われた、「あなたに何を与えようか、求めなさい」 口語訳聖書
「拾いもの」
ある大学教授は脳出血で倒れたとき、自分の蔵書をすべて大学に寄付し、身軽になって新しい生活をはじめたそうである。何かを新しくするということは、何かを放すということ。何を放すかによって新しくはじまるものの内容が決まる。放した後は、自分になにがはじまるかを注意深く見つめること。私の経験では、放すことは拾うことでもあるようだ。この拾いものは意外に大きい。
(心のデボーション6002)
心のデボーション6003
「うれひ人の心にあれば之を屈ます されど善言はこれを樂します」 箴言12:25 明治元訳聖書
「心に憂いがあればその人をかがませる、しかし親切な言葉はその人を喜ばせる。」 口語訳聖書
「憂い」
漢字で「憂」は「頁+心+ 夂(夊)」で「頭と心臓と下向きの足」をあらわすという。憂いは「頭と心」を悩まし、心配するの意。ギリシャ語「憂いκατήφεια」は「うなだれた顔つき」で、神は高ぶる者の「喜びを憂いに変へられる(傲慢な顏付きをうなだれた顔に変えられる)」。(ヤコブ4:9) 遜る者の言葉は「人の心を喜ばせ」、聞く者の心を慰める。
(心のデボーション6003)
心のデボーション6004
「時いたりて御言を宣教にて顯さんとし、その宣教を我らの救主たる神の命令をもて我に委ねたまへり。」 テトス1:3 大正文語訳聖書
「神は、定められた時に及んで、御言を宣教によって明らかにされたが、わたしは、わたしたちの救主なる神の任命によって、この宣教をゆだねられたのである」 口語訳聖書
「聖なるつとめ」
生涯を敬虔に生きた人が臨終の間際に、もうろうとした意識の中で、その人らしからぬ「下品な言葉」を口にし、それを聞いた人に複雑な思いが生まれたそうである。年をとったら、可愛げなく、憎まれっ子でいく手もある。そうすれば少なくとも、あらぬことを口にするかもしれないという心配はなくなる。敬虔とは「聖なるつとめにふさわしく」あることである。自分をそのままに生きることが、年をとった人の「聖なるつとめ」ではないか。
(心のデボーション6004)
心のデボーション6005
「父その榮光の富にしたがひて、御靈により力をもて汝らの内なる人を強くし、」 エペソ3:16 大正文語訳聖書
「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、」 口語訳聖書
「日々に新たに」
「内なる人τὸν ἔσω ἄνθρωπον」、「内なるἔσω」は「真ん中」を意味し、「内なる人」は「存在と人格の中心」、すなわち「心」をあらわず。神は聖霊によって「内なる人」を強くし、「日ごとに新しくされる(ἀνακαινόω「再び新たにされる」)」(Ⅱコリント4:16)。 神は私の存在の中心を日ごとに新しくし、力に満たしてくださる。
(心のデボーション6005)
心のデボーション6006
「斯くのごとく我らも成人とならぬほどは、世の小學の下にありて僕たりしなり。」 ガラテヤ4:3 大正文語訳聖書
「それと同じく、わたしたちも子供であった時には、いわゆるこの世のもろもろの霊力の下に、縛られていた者であった。」 口語訳聖書
「この世のもろもろの霊力から」
「わたしたちも子供であった時には、いわゆるこの世のもろもろの霊力の下に、縛られていた者であった」。 「この世のもろもろの霊力τὰ στοιχεῖα τοῦ κόσμου」の「霊力」と訳されたギリシャ語στοιχεῖονは「初歩、原素(基本的構成要素、原素霊(地・水・風・火)」を示す語で、「世界を支える基本的な力」を「霊的力」と見たものである。神を信じる以前に、人は「(「神ならぬ神々」である)この世の力、もろもろの原素」に「奴隷(縛られた者)」であったが、神はキリストにより「わたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さった」ので、「もはや僕ではなく、子である。子である以上、また神による相続人」となったのである。(ガラテヤ4:4-9)
(心のデボーション6006)
心のデボーション6007
「イスラエルの目は年壽のために眯て見るをえざりしがヨセフかれらをその許につれきたりければ之に接吻してこれを抱けり」 創世48:10 明治元訳聖書
「イスラエルの目は老齢のゆえに、かすんで見えなかったが、ヨセフが彼らを父の所に近寄らせたので、父は彼らに口づけし、彼らを抱いた。」 口語訳聖書
「ぼけ」
年をとってもぼけたくないと思う。しかし、人はぼけてはいけないのだろうか? 誰でも、年をとれば記憶力は衰え、視力も落ちてくる。そして、ぼけがはじまる。ヤコブも老齢のため目がかすみ、見ることができなくなった。しかし、目は見えなくても、子どもたちの未来を正確に見届けている。人はぼけた意識の中でも、何かを鮮やかに見抜く。ぼんやりした意識の中で、何が見ているのだろうか?
(心のデボーション6007)
心のデボーション6008
「この故に我らはキリストの教の初歩に止ることなく、再び死にたる行爲の悔改と神に對する信仰との基、」 へブル6:1 大正文語訳聖書
「そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、」 口語訳聖書
「磯ばたで船を破る」
「磯ばたで船を破る」という諺がある。あと少しで港というところで難破することをいう。長い航海を乗り切っても、接岸寸前に失敗すれば、すべてが無益となるのたとえである。しかし、終わりに躓いたからといってすべてが失敗だろうか? 終わりよりも、そこまでの道のりが大切ということもある。初めから「終わり」を目指さないという「終わり方」もある。
(心のデボーション6008)
心のデボーション6009
「今日ありて明日爐に投げ入れらるる野の草をも、神はかく裝ひ給へば、まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ」 マタイ6:30 大正文語訳聖書
「さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した。」 口語訳聖書
「野の草」
神は一瞬で燃えてしまう「野の草」をさえ美しく装われる。人は「私」という「装い」の美しさにいつ気づくのだろうか。
(心のデボーション6009)
心のデボーション6010
「なんぢの荷をヱホバにゆだねよさらば汝をささへたまはん ただしき人のうごかさるることを常にゆるしたまふまじ」 詩篇55:22 明治元訳聖書
「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。」 口語訳聖書
「あなたの荷」
バイヤンの「基督者」は杖をつかねば負えないほどの「荷」を背負って「天路歴程」の旅に出る。彼の背負うのは「私を墓よりも下に沈める」ほどに重い荷である。この重荷を負わない人は一人としていない。しかし、詩篇は「あなたの荷を主にゆだねよ」と告げる。(詩篇55:22) 「委ねよ*שׁלךְ*」は「投げる、放り出す」の意。あなたの「重荷.ὄγκος」を主に「放り投げ」なさい、主は「あなたを(「永遠の御手をもて」)ささえられる」と約束される。聖書のギリシャ語で「ὄγκος」は「障害になる重荷、邪魔物、やっかいなもの」を意味し、「担うべきもの、担わせられるもの」は「φορτίον」である。
(心のデボーション6010)
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