心のデボーション5911
「惰者の情慾はおのれの身を殺す 是はその手を肯て働かせざればなり」 箴言21:25 明治元訳聖書
「なまけ者の欲望は自分の身を殺す、これはその手を働かせないからである。」 口語訳聖書
「怠け者の欲望」
「なまけ者の欲望は自分の身を殺す」。(箴言21:25) 新共同訳聖書「怠け者は自分の欲望に殺される」。彼は怠け者ゆえに「その手を働かせないからである」。手を働かせなければ、その分、欲望は際限もなく膨らむ。
(心のデボーション5911)
心のデボーション5912
「言は肉體となりて我らの中に宿りたまへり、我らその榮光を見たり、實に父の獨子の榮光にして、恩惠と眞理とにて滿てり。」 ヨハネ1:14 大正文語訳聖書
「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」 口語訳聖書
「内なることば」
自分を見つめるのは、ことばを探す作業でもあるのかもしれない。心の奥にあって、表現されるのを待っているのは、ヨハネが「人となって、私たちの間に住まわれた」と告げる、あの「ことば」ではないか? 「ことば」と出会うよろこびは、それを求める人々と出会うよろこびを含んでいる。同じ「ことば」を語る人と出会えたというよろこびである。それに支えられて、私たちは「内なることば」を育てていくのだろう。
(心のデボーション5912)
心のデボーション5913
「おほくの人はいふたれか嘉事をわれらに見するものあらんやと ヱホバよねがはくは聖顔の光をわれらの上にのぼらせたまへ」 詩篇4:6 明治元訳聖書
「多くの人は言う、「どうか、わたしたちに良い事が見られるように。主よ、どうか、み顔の光を/わたしたちの上に照されるように」と。」 口語訳聖書
「幸せ」
「どうか、わたしたちに良い事が見られるように」は新改訳聖書「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか」、フランシスコ会訳聖書「誰がわたしたちに幸せを見せてくれるのか」。「幸せ」を見せてくれるのは人ではなく、神である。
(心のデボーション5913)
心のデボーション5914
「願はくは忍耐と慰安との神、なんぢらをしてキリスト・イエスに效ひ、互に思を同じうせしめ給はん事を。」 ロマ15:5 大正文語訳聖書
「どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ」 口語訳聖書
「傍に呼ぶ」
パウロは神を「忍耐と励ましの神」と呼ぶ。「励ましπαράκλητος」はギリシャ語で「傍に呼ぶ」という意味がある。神は私を傍に呼び寄せて、「がっかりするな」と励ましてくださる。人を励ます時、傍に呼ぶことを忘れないことだ。呼んだのにこなかったといってはいけない。「傍に呼ぶ」とは、自分が彼の傍になることだからである。聖霊は「παράκλητος助け主」と呼ばれる。
(心のデボーション5914)
心のデボーション5915
「即ち偶像に献げたる物と、血と、絞殺したる物と、淫行とを避くべき事なり、汝等これを愼まば善し。なんぢら健かなれ』」 使徒15:29 大正文語訳聖書
「それは、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい。以上」。」 口語訳聖書
「遠ざける」
「偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行」を「避けなさい」。「避けるἀπέχω」は「遠ざける」で、「決別せよ」の意。神ならぬものを神とするのは「不品行」である。
(心のデボーション5915)
心のデボーション5916
「又わが口を開くとき言を賜はり、憚らずして福音の奧義を示し、」 エペソ6:19 大正文語訳聖書
「また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。」 口語訳聖書
「福音を明らかに示す」
パウロはエペソの信徒に「わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい」と書き送る。(エペソ6:19) 「明らかに示すγνωρίζω」は「知らせる、告げる」の意であるが、そこには「明らかに示す」の意味がある。神の福音を「明らかに示す」は祈りによって与えられる神からの賜物である。
(心のデボーション5916)
心のデボーション5917
「殊更に謙遜をよそほひ御使を拜する者に、汝らの褒美を奪はるな。かかる者は見し所のものに基き、肉の念に隨ひて徒らに誇り、」 コロサイ2:18 大正文語訳聖書
「あなたがたは、わざとらしい謙そんと天使礼拝とにおぼれている人々から、いろいろと悪評されてはならない。彼らは幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇るだけで、」 口語訳聖書
「謙遜を楽しむ」
「ことさらな自己卑下」には、「謙遜を楽しむ、気に入る」ということばがあてられる。「わざとらしい謙遜」のことである。謙遜を愛する人は、もはや謙遜とはいえない。どんなに正しい謙遜でも、意識されるとその時点で腐りはじめ、「わざとらしさ」という悪臭を放つからである。謙遜を忘れるのが謙遜である。しかし、これも又、そう意識すると謙遜でなくなる。つまり、謙遜とは「謙遜を意識しない謙遜」、すなわち「ありのまま」である。
(心のデボーション5917)
心のデボーション5918
「神の爲したまふところは皆その時に適ひて美麗しかり 神はまた人の心に永遠をおもふの思念を賦けたまへり 然ば人は神のなしたまふ作爲を始より終まで知明むることを得ざるなり」 伝道3:11 明治元訳聖書
「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」 口語訳聖書
「臨終の時」
「主を畏れる者は、終わりを全うし、臨終の時には、祝福を受けるであろう」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵1:13 フランシスコ会訳聖書)「終わりを全うしκαὶ ἐν ἡμέρᾳ τελευτῆς αὐτοῦ εὐλογηθήσεται」は「死の日によいことがある」の意。神を畏れる者はが、「死の日」に受け取る「祝福」は、その日に「自己を全うする(すなわち、自己の終わりを全うする)ことであろう。
(心のデボーション5918)
心のデボーション5919
「空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に收めず、然るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ。汝らは之よりも遙に優るる者ならずや」 マタイ6:26 大正文語訳聖書
「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。」 口語訳聖書
「色々の方向」
人は空の鳥よりも「価値ある」。「価値あるもの διαφέρω ディアふェロー」には「色々の方向へ運ぶ」という意味が含まれている。神はわたしを「色々の方向に運ばれる」。運ぶ価値があると思いなされるからである。
(心のデボーション5919)
心のデボーション5920
「そは神の我らに賜ひたるは、臆する靈にあらず、能力と愛と謹愼との靈なればなり。」 Ⅱテモテ1:7 大正文語訳聖書
「というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。」 口語訳聖書
「慎みの霊」
Ⅱテモテの「慎み」は「慎みの霊」で、「慎みσωφρονισμός」は「分別、自制」の意である。「力と愛」に「分別と自制」をもたらす。
(心のデボーション5920)
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