心のデボーション5881
「われは虚しき人とともに座らざりき 惡をいつはりかざる者とともにはゆかじ」 詩篇26:4 明治元訳聖書
「わたしは偽る人々と共にすわらず、偽善者と交わらず、」 口語訳聖書
「偽」
「偽」は、「人」が「為す」と書く。「人が手を加えてつくる」から「作為をもって姿を変える」ことが「偽り」であるという。「偽る」を意味するギリシャ語ἀρνέομαιは「否む」で「自己を否む」の意味である。「偽善者」とは交わらぬがよい。
(心のデボーション5881)
心のデボーション5882
「神光を善と觀たまへり神光と暗を分ちたまへり」 創世1:4 明治元訳聖書
「神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。」 口語訳聖書
「朝顔の花軍旗の」
朝顔は朝の光を受けて花を咲かせる。もっと大きく美しい花を咲かせようと、つぼみに二十四時間光を当てたところ、朝顔は開かなかったそうである。朝顔が咲くには、朝の光と夜のやみが必要なのだ。やみはつぼみが美しく開く備えをする。人の心が花開くのにも、光を受けるだけではだめで、やみにふれることが大切なのかもしれない。やみの間は、動き回らずに、静かにしていればよい。
(心のデボーション5882)
心のデボーション5883
「われ智慧は聰明をすみかとし 知識と謹愼にいたる」 箴言8:12 明治元訳聖書
「知恵であるわたしは悟りをすみかとし、知識と慎みとをもつ。」 口語訳聖書
「知恵」
「知恵であるわたしは悟りをすみかとし」。(箴言8:12) 新共同訳聖書「わたしは知恵。熟慮と共に住まい」。「熟慮**עָרְמָה**」は「分別、巧妙、熟慮」の意。LXXβουλήは「意思、決意、神意」。「知恵」は神とともにある分別である。
(心のデボーション5883)
心のデボーション5884
「そは神の我らに賜ひたるは、臆する靈にあらず、能力と愛と謹愼との靈なればなり。」 Ⅱテモテ1:7 大正文語訳聖書
「というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。」 口語訳聖書
「臆病の霊」
パウロは若いテモテに「臆病者になるな」と励ます。「臆病」と訳されるギリシャ語「δειλία」は「卑怯、恐れ」の意味がある。テモテは気が弱く、仕事が難しくなると身を引きたくなるタイプだったのかもしれない。大胆な人はたいてい臆病で、繊細な心をもっている。臆病でもいい、ただ、卑怯者にはなるなとパウロはいいたいのだ。
(心のデボーション5884)
心のデボーション5885
「汝を生る父にきけ 汝の老たる母を軽んずる勿れ」 箴言23:22 明治元訳聖書
「あなたを生んだ父のいうことを聞き、年老いた母を軽んじてはならない。」 口語訳聖書
「父の教え」
「論語」には、「父のあるうちはその志を観察し、父の死後はその行為を観察し、死後3年は父のやり方を改めないがよい。」とある。父を真に観察する人は3年では足りないと知るだろう。
(心のデボーション5885)
心のデボーション5886
「かれらは平安をかたらず あざむきの言をつくりまうけて國内におだやかにすまふ者をそこなはんと謀る」 詩篇35:20 明治元訳聖書
「彼らは平和を語らず、国のうちに穏やかに住む者にむかって/欺きの言葉をたくらむからです。」 口語訳聖書
「講和」
モンテーニュは「講和のときは危険である」として、「われわれは条約の最後の調印がすむまでおたがいに審議を期待してはならない」と言う。(モンテーニュ「エセー」原二郎訳 筑摩書房昭和43年より) しかし、時代は「たとえ条約を調印が終わっても」危険が去らない世界に入った。
(心のデボーション5886)
心のデボーション5887
「愛を追ひ求めよ、また靈の賜物、ことに預言する能力を慕へ。」 Ⅰコリント14:1 大正文語訳聖書
「愛を追い求めなさい。また、霊の賜物を、ことに預言することを、熱心に求めなさい。」 口語訳聖書
「ご大切」
最初の日本語聖書で、「愛」は「ご大切」と訳された。それに従えば愛の告白は「あなたは私のご大切です」ということになる。愛は相手をまるごと「ご大切」とすることである。思い通りにならず、気にいらないものを、そのまま「ご大切」といい切る。愛と出会って、人ははじめて自分の「ご大切」に気づく。あなたの「ご大切」は粗大ゴミ扱いされていないだろうか。
(心のデボーション5887)
心のデボーション5888
「キリストの平和をして汝らの心を掌どらしめよ、汝らの召されて一體となりたるはこれが爲なり、汝ら感謝の心を懷け。」 コロサイ3:15 大正文語訳聖書
「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。」 口語訳聖書
「感謝する者であり続けよ」
「いつも感謝していなさいεὐχάριστοι γίνεσθε」は「εὐχάριστοι(感謝する者たち)」+「γίνεσθε(現在命令形~になれ)」で「継続的に感謝する者となれ」の意である。良いことに感謝するのは容易い。しかし、この御言葉は「時が良くても悪くても」、どのような状況にも「感謝する者であり続けよ」と告げる神の御命令である。
(心のデボーション5888)
心のデボーション5889
「空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に收めず、然るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ。汝らは之よりも遙に優るる者ならずや」 マタイ6:26 大正文語訳聖書
「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。」 口語訳聖書
「空の鳥」
「空の鳥」は種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。鳥は飛ぶ為にではなく、食べる為に飛ぶ。神これを養い給う。「人間」は、額に汗して種を蒔き、刈り入れをし、倉に納める。食べるためにではなく、人間であるために食べる。人は飛ぶために食べる。神これを養い給う。「空の鳥」をうらやむな。「地の人」を嘆くな。「鳥」も「人」も、創られた己を生きる。神これを養い給う。
(心のデボーション5889)
心のデボーション5890
「なんぢの民をすくひなんぢの嗣業をさきはひ且これをやしなひ之をとこしなへに懐きたすけたまへ」 詩篇28:9 明治元訳聖書
「どうぞ、あなたの民を救い、あなたの嗣業を恵み、彼らの牧者となって、とこしえに彼らをいだき導いてください。」 口語訳聖書
「牧者なる神」
「彼らの牧者となって、とこしえに彼らをいだき導いてください」。(詩篇28:9) 新改訳聖書訳「いつまでも、彼らを携えて行ってください」。ヘブル語** וְנַשְּׂאֵֽם **は「担い上げて(高く掲げて)ください」で「高めて、守って、尊く扱ってください」の意である。LXXは本文に「永遠に至るまで(ἕως τοῦ αἰῶνος)」を加える。牧者である神は「永遠にいたるまで、私を「高め、私を守り、私を尊きもの」として担ってくださる。
(心のデボーション5890)
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