心のデボーション5871
「汝もし我を友とせば、請ふ、われを納るるごとく彼を納れよ。」 ピレモン1:17 大正文語訳聖書
「そこで、もしわたしをあなたの信仰の友と思ってくれるなら、わたし同様に彼を受けいれてほしい。」 口語訳聖書
「信仰の友」
「信仰の友」のギリシャ語は「κοινωνός」で「共にあずかる者」の意である。経験を一つにするのが「友」であり、信仰の友は、友の友とも友となる。漢字「友」の原型は「手」をあらわすものを二つ重ねた形で構成され、互いの手をもって助けあうことから来ている。常に手を後ろに組む者は、愛想はよくても友ではあるまい。
(心のデボーション5871)
心のデボーション5872
「即ちその跌倒る時には一箇の人その伴侶を扶けおこすべし 然ど孤身にして跌倒る者は憐なるかな之を扶けおこす者なきなり」 伝道4:10 明治元訳聖書
「すなわち彼らが倒れる時には、そのひとりがその友を助け起す。しかしひとりであって、その倒れる時、これを助け起す者のない者はわざわいである。」 口語訳聖書
「ひとりぼっち」
甘やかされ、可愛がられた人は意外とさみしがりなものだ。活発で明るく、生き生きとしていて、太陽のような人で、何でも興味をもって手を出すが、決して満足することがなく、心はいつもひとりぼっちである。しかし、さみしいのはあなただけではない。あなたに助けてもらうのを待っている人もいる。倒れている人から起こしてくれと声をかけてもらえないのが本当のさみしさではないか。
(心のデボーション5872)
心のデボーション5873
「この故に我が心は樂しみ、我が舌は喜べり、 かつ我が肉體もまた望の中に宿らん。」 使徒2:26 大正文語訳聖書
「それゆえ、わたしの心は楽しみ、/わたしの舌はよろこび歌った。わたしの肉体もまた、望みに生きるであろう。」 口語訳聖書
「望みに生きる」
ダビデはイエスについて、「わたしは常に目の前に主を見た」と告白し、「それゆえ、わたしの心は楽しみ、わたしの舌はよろこび歌った。わたしの肉体もまた、望みに生きる」と神を賛美する。(使徒2:26) イエスを「常に目の当たりに見る」者の「心は楽しみ」、その「肉体は望みに生き」、その口は常に「喜び歌う」。祝福はいのち全般に及ぶ。
(心のデボーション5873)
心のデボーション5874
「主ヱホバは敎をうけしものの舌をわれにあたへ言をもて疲れたるものを扶支ふることを知得しめたまふ また朝ごとに醒しわが耳をさまして敎をうけし者のごとく聞ことを得しめたまふ」 イザヤ50:4 明治元訳聖書
「主なる神は教をうけた者の舌をわたしに与えて、疲れた者を言葉をもって助けることを知らせ、また朝ごとにさまし、わたしの耳をさまして、教をうけた者のように聞かせられる。」 口語訳聖書
「間のとり方」
間のとり方がわからなくて、自分をうまく出せないというのは苦しいものだ。自分の感情をどう表現したらよいかわからなくて戸惑ってしまう。神は朝ごとに私に呼びかけ、私に聞く耳を与えてくださる。人は呼びかける前に、まず、呼びかけられる存在である。神の呼びかけに耳を開くことが、「間」のとり方を教えてくれるのではないか。
(心のデボーション5874)
心のデボーション5875
「汝らが遭ひし試煉は人の常ならぬはなし。神は眞實なれば、汝らを耐へ忍ぶこと能はぬほどの試煉に遭はせ給はず。汝らが試煉を耐へ忍ぶことを得んために之と共に遁るべき道を備へ給はん。」 Ⅰコリント10:13 大正文語訳聖書
「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」 口語訳聖書
「脱出の道」
「逃れの道ἔκβασις」は「出口、終わり」の意で、「試練を終わらせる出口(脱出の道)」である。終わりのない試練はない。神は試練と同時に終わりを示され、それに至る道を設けられ、終わりにまでゆく力を与えられる。
(心のデボーション5875)
心のデボーション5876
「かれらは感謝のそなへものをささげ喜びうたひてその事跡をいひあらはすべし」 詩篇107:22 明治元訳聖書
「彼らが感謝のいけにえをささげ、喜びの歌をもって、そのみわざを言いあらわすように。」 口語訳聖書
「深まる感謝」
神への感謝をささげる者よ、「そのみわざを言いあらわせ」。(詩篇107:22) 神の「みわざを言いあらわす」ごとに、「感謝」が深まり、「深まる感謝」は新たな「主の御業」を生む。
(心のデボーション5876)
心のデボーション5877
「また言ひ給ふ『きく耳ある者は聽くべし』」 マルコ4:9 大正文語訳聖書
「そして言われた、「聞く耳のある者は聞くがよい」」 口語訳聖書
「聞く力」
「聞く耳」があるからには「聞かない耳」というものがあるに違いない。「聞く耳」とは「意志をもって相手に聞 こうとする耳」のことである。すると「聞かない耳」とは、従うつもりもなく聞く耳のことだ。「聞かない耳」は「聞く耳をもたない」のではなく、聞きはするが「聞く力」に欠けているのである。「聞く耳」を育てるには、聞くことに自分を入れることだ。「聞く耳」とは「心の力」である。
(心のデボーション5877)
心のデボーション5878
「願くはなんぢの光となんぢの眞理とをはなち我をみちびきてその聖山とその帷幄とにゆかしめたまへ」 詩篇43:3 明治元訳聖書
「あなたの光とまこととを送ってわたしを導き、あなたの聖なる山と、あなたの住まわれる所に/わたしをいたらせてください。」 口語訳聖書
「神の光と真理」
作者は「あなたの光とまことで私を照らしてください」と祈る。神の光は作者が「敵のしえたげによって悲しみ歩く姿を照らし出し、「〔神の」聖なる山と、〔神の〕住まわれる所にわたしをいたらせてくださる」。(詩篇43:2-3)
神の光は、彷徨う心とその意味を明らかにし、心の行くべきところを示され、そこ導く光である。
(心のデボーション5878)
心のデボーション5879
「この故に我なんぢらに告ぐ、何を食ひ、何を飮まんと生命のことを思ひ煩ひ、何を著んと體のことを思ひ煩ふな。生命は糧にまさり、體は衣に勝るならずや」 マタイ6:25 大正文語訳聖書
「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。」 口語訳聖書
「パンと服」
「魂のことで」は「魂のために」。パンの豊かさに魂が満ち足りることはなく、服でつつめば身体が立派になるというものでもない。思い悩むべきは魂と体そのものについてであって、パンや服ではない。しかし、人はもっぱら「パンと服」について思い悩む。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)
(心のデボーション5879)
心のデボーション5880
「神の人よ、なんぢは此等のことを避けて、義と敬虔と信仰と愛と忍耐と柔和とを追ひ求め、神の人よ、なんぢは此等のことを避けて、義と敬虔と信仰と愛と忍耐と柔和とを追ひ求め、」 Ⅰテモテ6:12 大正文語訳聖書
「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。」 口語訳聖書
「運」
漢字で「運」は「軍」としんにゅうからなる。「軍」は軍旗を押し立てた兵車で、「一軍」は4000人である。「運」は戦場を軍旗のもとに移動する一軍である。勝敗は軍のたてる計略にある。「運」は偶然におとずれるものではない。
(心のデボーション5880)
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