心のデボーション587

デボーション1
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心のデボーション5861

「感謝しつつその門にいり ほめたたへつつその大庭にいれ 感謝してその名をほめたたへよ」 詩篇100:4  明治元訳聖書

「感謝しつつ、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、そのみ名をほめまつれ。」 口語訳聖書

 「感謝しつつ」

詩篇100篇は表題に「感謝の賛歌」とあり、礼拝への招きの歌であろう。礼拝に行く者は「感謝しつつ、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入り」、「主に感謝し、そのみ名をほめまつれ」と歌う。(詩篇100:4) 「感謝」のあるところに、神への礼拝がある。「主は恵みふかく、そのいつくしみはかぎりなく、そのまことはよろず代に及ぶ」。(詩篇100:5)

(心のデボーション5861)

心のデボーション5862

「イエス此處に至りしとき、仰ぎ見て言ひたまふ『ザアカイ、急ぎおりよ、今日われ汝の家に宿るべし』」 ルカ19:5 大正文語訳聖書

「イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、『ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから』。」 口語訳聖書

 「ザアカイ」

ザアカイは群れの中に身を隠し、イエスが近づくのを待った。通過するイエスを一目見ることさえできれば、それで良かったのだ。しかし、イエスは足を止め、「ザアカイ」と、彼の名を呼び、群れの中から引き出される。イエスは隠れた人としてではなく、無名であっても私という人格に直接語りかけてこられる。イエスの口から、自分の名前を聞いた瞬間から、私の世界は新しくなった。

(心のデボーション5862)

心のデボーション5863

「我すべての事に於て例を示せり、即ち汝らも斯く働きて、弱き者を助け、また主イエスの自ら言ひ給ひし「與ふるは受くるよりも幸福なり」との御言を記憶すべきなり』」 使徒20:35  大正文語訳聖書

「わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。口語訳聖書

 「幸いな生」

「与える」は、自分自身を差し出す行為である。人は自分に生きているものしか、真に与えることができない。それは「与える」ことによって生まれ、与えなければ枯渇してしまう「私」である。

(心のデボーション5863)

心のデボーション5864

「これはその子に情なくして宛然おのれの子ならざるが如くし その劬勞の空しくなるも繋念ところ無し」 ヨブ39:16  明治元訳聖書

「これはその子に無情であって、/あたかも自分の子でないようにし、/その苦労のむなしくなるをも恐れない。」 口語訳聖書

 「ダチョウの夫婦」

ダチョウは雄が掘った穴に雌が卵を産む。雌は昼間の間は卵を温めるが、夜になると卵を置き去りにしてどこかに行ってしまう。赤ん坊の顔を見るのもいやという母親もいる。だからといって「自分の子を自分のものでないかのように荒く扱う」ことが許されるはずもない。かわいさという感情をたよりに子育てをするのは危険である。子どもにはかわいくない面もたくさんあるからだ。ダチョウの話だが、ダチョウの名誉のためにいえば、ダチョウは決して卵を土に置き去りにはしない。昼は雌が抱卵し、夜は雄と交代するのである。それが「置き去り」と見えたのだろう。

(心のデボーション5864)

心のデボーション5865

「この我が子、死にて復生き、失せて復得られたり」かくて彼ら樂しみ始む。」 ルカ15:24  大正文語訳聖書

「このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。」 口語訳聖書

 「新しい自分」

自分を発見したいと思うなら、自分を含めて自分の周囲にあるものを新しく見直すがよい。「新しい自分」とは、それまで見過ごしていた自分に気づくことだからである。放蕩息子が父親のもとに帰還すると「このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言われた。(ルカ15:24) 放蕩息子が発見したのは、自分の内にありながら見ることをしなかった自分であった。

(心のデボーション5865)

心のデボーション5866

「ひとりの嬰兒われらのために生れたり 我儕はひとりの子をあたへられたり 政事はその肩にあり その名は奇妙また議士 また大能の神とこしへのちち 平和の君ととなへられん」 イザヤ9:6  明治元訳聖書

「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。」 口語訳聖書

 「その名は不思議」

岡部伊都子さんの本に素敵な「母との会話」がある。そのまま引用させていただく。(岡部伊都子「ひとを生きる」海竜社1991/11より)

「お母ちゃん、うちはなんで生まれてきたん。人はなんで生きているのん。いのちで、何やのん?」

そんな時、母はわたくしの額に額を寄せてきて言うのでした。

「そうか、あんたもそう思うか。ほんまにお母ちゃんは何でお母ちゃんに生まれてきたんやろな。お母ちゃんかて、いっつもそれがふしぎやなあと思てるねん。ふしぎやな。何でやろな」

(心のデボーション5866)

心のデボーション5867

「われはその聖前にわが歎息をそそぎいだし そのみまへにわが患難をあらはす」 詩篇142:2  明治元訳聖書

「わたしはみ前にわが嘆きを注ぎ出し、み前にわが悩みをあらわします。」 口語訳聖書

 「告白」

「実は君が嫌いだった」と打ち明けたら、相手に「ぼくもそうだった」といわれて落ち込んでしまった人がいる。それまでの関係を損なうようなことを打ち明けるには、告白する側もされる側も心の準備が必要だ。隠しておくのが苦しいという、こちらの理由だけで告白するのは自分勝手というものである。告白にも神の導きがある。神の導きに従った告白は、互いを癒す。(ヤコブ5:16)

(心のデボーション5867)

心のデボーション5868

「汝の神ヱホバの名を妄に口にあぐべからずヱホバはおのれの名を妄に口にあぐる者を罰せではおかざるべし」 出エジプト20:7  明治元訳聖書

「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。」 口語訳聖書

 「果たすつもりもなく」

「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない」。(出エジプト20:7) 「みだりに」はヘブル語** שׁ‏ָו‏ְא**「むなしさ、偽り」をあらわじ、LXXμάταιοςは「空虚な、空しい、(効果の)ない、無益な、本当のものでない」の意味である。リビングバイブル日本語版(いのちのことば社)は「果たすつもりもないのに、やたらにわたしの名を使って誓ってはならない」と訳す。

(心のデボーション5868)

心のデボーション5869

「この故に我なんぢらに告ぐ、何を食ひ、何を飮まんと生命のことを思ひ煩ひ、何を著んと體のことを思ひ煩ふな。生命は糧にまさり、體は衣に勝るならずや」 マタイ6:25 大正文語訳聖書

「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。」 口語訳聖書

 「魂と肉体」

「魂」は「身体」に優らず、二つは互いによって支えられ、一つである。二つは「食べること、飲むこと、着ること」の意味と必要を知っている。「食べること、飲むこと、着ること」は「魂」と「肉体」を結びつける。彼らはそれ以上のことを必要としないし、求めもしない。

(心のデボーション5869)

心のデボーション5870

「時は滿てり、神の國は近づけり、汝ら悔改めて福音を信ぜよ」 マルコ1:15  大正文語訳聖書

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。 口語訳聖書

 「知者の沈黙」

「知恵ある人は、時が来るまで、沈黙を守るが、ほら吹きの愚か者は、時を逃してしまう」。(旧約聖書外典ベン=シラの知恵20:7フランシスコ会訳聖書) バルバロ訳聖書「知恵者は時のくるまで口を閉ざし、おしゃべりと愚か者は時のくるのを待たない」。知恵者は時にかなったことを言い、愚者は時を無視して時を失ったことを言い募る。知者は沈黙の人ではない。

(心のデボーション5870)

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