心のデボーション5821
「斯く我らの勸告を納れるによりて『主の御意の如くなれかし』と言ひて止む。」 使徒21:14 大正文語訳聖書
「こうして、パウロが勧告を聞きいれてくれないので、わたしたちは「主のみこころが行われますように」と言っただけで、それ以上、何も言わなかった。」 口語訳聖書
「主のみこころが行われますように」
預言者アガポが「パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って、「聖霊がこうお告げになっている、『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちがエルサレムでこのように縛って、異邦人の手に渡すであろう』」と預言すると、人々はパウロがエルサレムにのぼらないようにと懇願した。しかし、アガポの預言はパウロを引き止めるためではなかった。パウロは「主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことをも覚悟している」と告げた。人々はそれを聴いて「主のみこころが行われますように」と言っただけで、それ以上、何も言わなかった」。(使徒21:14) パウロの心にあったのも「主のみこころが行われますように」という信仰であった。
(心のデボーション5821)
心のデボーション5822
「なんぢ地にのぞみて漑そぎおほいに之をゆたかにしたまへり 神のかはに水みちたり なんぢ如此そなへをなして穀物をかれらにあたへたまへり」 詩篇65:9 明治元訳聖書
「あなたは地に臨んで、これに水をそそぎ、これを大いに豊かにされる。神の川は水で満ちている。あなたはそのように備えして/彼らに穀物を与えられる。」 口語訳聖書
「濁った水」
「水清ければ魚棲まず」という。確かにアマゾンの濁流には驚くほどの魚が棲んでいる。しかし、ヤマメのように清流を好む魚もいる。棲むべき水が濁っているべきかどうかよりも、それが今の自分とどうかかわるかが問題であろう。「神の川」は清流の日もあれば濁流の日もある。しかし、水は豊かである。流れている水は常に変化し、ゆえに、生きた水なのである。
(心のデボーション5821)
心のデボーション5823
「何なればもろもろの國人はさわぎたち諸民はむなしきことを謀るや」 詩篇2:1 明治元訳聖書
「なにゆえ、もろもろの国びとは騒ぎたち、もろもろの民はむなしい事をたくらむのか。」 口語訳聖書
「なにゆえ、もろもろの国びとは騒ぎたち」
「もろもろの国びとは騒ぎたち、もろもろの民はむなしい事をたくらむ」。(詩篇2:1) 何故か? 「地のもろもろの王は立ち構え、もろもろのつかさはともに、はかり、主とその油そそがれた者とに逆ら」からである。(詩篇2:2)「騒ぎ立つהָגָה」は「嘆く、つぶやく、うなる、痛い」で、「口で嘆き、心で痛む」の意である。鎮まって「何故に?」と問わねばならぬ。
(心のデボーション5821)
心のデボーション5824
「この故に汝らに勸む、我に效ふ者とならんことを。」 Ⅰコリント4:16 大正文語訳聖書
「そこで、あなたがたに勧める。わたしにならう者となりなさい。」 口語訳聖書
「生き直す」
いったん書いたものを書き直すのは、新しく書くよりも苦痛を伴うものだ。書くことが生きることであれば、それは生き直しでなければならないからである。内なる人が「日々新にされる」とは、何度でも生き直すことではないか。生き直しは、必ずしも、以前よりよくなるとは限らない。しかし、それに失望することは決してない。この苦しみに導かれて、真の自分に近づくのだから。
(心のデボーション5821)
心のデボーション5825
「子にくちつけせよ おそらくはかれ怒をはなちなんぢら途にほろびんその忿恚はすみやかに燃べければなり すべてかれに依賴むものは福ひなり」 詩篇2:12 明治元訳聖書
「その足に口づけせよ。さもないと主は怒って、あなたがたを道で滅ぼされるであろう、その憤りがすみやかに燃えるからである。すべて主に寄り頼む者はさいわいである。」 口語訳聖書
「主に寄り頼む」
「すべて主に寄り頼む者はさいわいである」。(詩篇2:12) 新共同訳聖書「いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて」。「避けどころ」は「守られるように逃げる逃れ場」であり、「信頼し、望みを置く」ことのできるところ」である。「主」を「望み」とする者はさいわいである。
(心のデボーション5821)
心のデボーション5826
「この四十年のあひだ汝の衣服は古びて朽ず汝の足は腫ざりし」 申命8:4 明治元訳聖書
「この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。」 口語訳聖書
「わたしの着物はすり切れず」
イスラエルの民は出エジプトから40年間、荒野を放浪した。しかし、「この四十年の間、〔過酷なユダの荒野の旅のにもかかわらず〕あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった」という。(申命8:4)人は、これまでの生涯を振り返り、「〔神に従う日々の間、過酷な荒野の旅のにもかかわらず〕わたしの着物はすり切れ、わたしの足は、はれなかった」と告白し、神を賛美するだろう。
(心のデボーション5821)
心のデボーション5827
「なんぢら鼻より息のいでいりする人に倚ることをやめよ斯るものは何ぞかぞふるに足らん」 イザヤ2:22 明治元訳聖書
「あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ、このような者はなんの価値があろうか。」 口語訳聖書
「偶像礼拝」
イザヤは「鼻で息をする人間」に期待するなと語る。忘れていけないことは、自分の鼻からも、息が出入りしていることである。イザヤは「他人も自分も頼るな」と戒めているのではなく、「鼻で息をする人間」を神としてあがめるなと教えているのである。他人のことばが「神」になったり、自分の存在を「神」としたりすることには「何の値打ちもない」と語るのである。偶像礼拝は知らないうちにはじまる。
(心のデボーション5821)
心のデボーション5828
「されば凡ての穢と溢るる惡とを捨て、柔和をもて其の植ゑられたる所の靈魂を救ひ得る言を受けよ。」 ヤコブ1:21 大正文語訳聖書
「だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。」 口語訳聖書
「たましいを救う力」
「御言には、あなたがたのたましいを救う力がある」。「心に植えつけられている御言葉」は「すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去り」、「あなたがたのたましいを救う」。(ヤコブ1:21) 御言葉は実を結ぶべく「植えつけられたἔμφυτος」「魂を救う力」である。
(心のデボーション5821)
心のデボーション5829
「人は二人の主に兼ね事ふること能はず、或はこれを憎み彼を愛し、或はこれに親しみ彼を輕しむべければなり。汝ら神と富とに兼ね事ふること能はず」 マタイ6:24 大正文語訳聖書
「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」 口語訳聖書
「マモン」
マモンMammonはキリスト教の「七つの大罪」の一つ「強欲」である。マモンは黒い烏の翼をもっており、人に呼び出されるとやって来て、その人の金銭欲を満たしてくれるが、その代償として命を奪う。マモンから受け取った金銭はしばらくすると馬糞や灰に化す。ミルトンの『失楽園』では、堕天使のうちで「さもしい根性」の持ち主とされ、地獄に落ちてもそこに金鉱を発見し、それで他の堕天使をあやつる。マモンは古代シリアから「神」として崇められてきたが、現代で最も崇められ、強い力で人を支配する神であることに変わりはない。
(ニュッサのグレゴリウス(335年頃 – 394年以降)はマモンを「ベルゼブル Beelzeboul 悪魔」の別名とした。中世の教会が「マモン」を悪魔扱いしたのは、献金をしぶる守銭奴を嫌ってのことかもしれない)
(心のデボーション5821)
心のデボーション5830
「我すべての事に於て例を示せり、即ち汝らも斯く働きて、弱き者を助け、また主イエスの自ら言ひ給ひし「與ふるは受くるよりも幸福なり」との御言を記憶すべきなり』」 使徒20:35 大正文語訳聖書
「わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。口語訳聖書
「与える行為」
「受けるよりは与える方が、さいわいである」。(使徒20:35) 「与える」は「施す、分ける」の意。「与える」は物に限らず、「接吻、感謝、称賛、罰、戒め」等も含まれる。受ける人に善きものばかりでなく、受け取りにくいものでも涙と共に与えなければならないときがある。「愛による行為」は「幸い」をもたらす。
(心のデボーション5821)
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