心のデボーション577

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心のデボーション5761

「隠微たる事は我らの神ヱホバに屬する者なりまた顯露されたる事は我らと我らの子孫に屬し我らをしてこの律法の諸の言を行はしむる者なり」 申命記29:29  明治元訳聖書

「隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。」 口語訳聖書

 「真実」

「あらわれる」は「おおいを除かれる」の意である。真実は神が「おおいを除かれる」ことによって明らかにされる。「万軍の主はみずからわたしの耳に示された、「まことに、この不義はあなたがたが死ぬまでゆるされることはない」と万軍の神、主は言われる」。(イザヤ24:14)

(心のデボーション5761)

心のデボーション5762

「人はその虚空き生命の日を影のごとくに送るなり 誰かこの世において如何なる事か人のために善き者なるやを知ん 誰かその身の後に日の下にあらんところの事を人に告うる者あらんや」 伝道6:12  明治元訳聖書

「人はその短く、むなしい命の日を影のように送るのに、何が人のために善であるかを知ることができよう。だれがその身の後に、日の下に何があるであろうかを人に告げることができるか。」 口語訳聖書

 「転がる石」

「転がる石は苔を得ず」ということわざがある。イギリスでは、転がってばかりいては苔はつかない、だからむやみに動くなという意味に使われる。それがアメリカでは、常に動いてれば苔はつかない、絶えず転身していれば輝いていられるという意味になる。「苔」がつくのがいいか、つかないのがいいかはあなた次第。若い頃はアメリカで、中年からはイギリスかなと思ったりする。

(心のデボーション5762)

心のデボーション5763

「ヱホバよなんぢの帷幄のうちにやどらん者はたれぞ なんぢの聖山にすまはんものは誰ぞ」 詩篇15:1  明治元訳聖書

「主よ、あなたの幕屋にやどるべき者はだれですか、あなたの聖なる山に住むべき者はだれですか。」 口語訳聖書

 「幕屋に入るべき者」

本詩は巡礼者が神殿にはいるときの詩篇とされる。巡礼者は神殿の門で「神殿に入ることが許されるのは誰か」と問い、門を守る祭司が「他者に害を加えない者」(詩篇15:2-5)と答える。神殿に入る者は、ます他者への罪を悔い改めなければならなかった。

(心のデボーション5763)

心のデボーション5764

「ああ虚しき人よ、なんぢ行爲なき信仰の徒然なるを知らんと欲するか。」 ヤコブ2:20  大正文語訳聖書

「ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。」 口語訳聖書

 「愚かな人」

その日の食べ物にも事欠く人に、「今日はどこかでおいしいものでも手に入れて、十分に食べなさい」という人を、ヤコブは「愚かな人」と呼ぶ。「愚かな人」とは、知性がないという意味ではなく、「からっぽの人」のことである。手が「から」なのではなく、心がからっぽで、ことばがむなしいのである。

(心のデボーション5764)

心のデボーション5765

「ヱホバは心のくだけたるものを醫しその傷をつつみたまふ」 詩篇147:3  明治元訳聖書

「主は心の打ち砕かれた者をいやし、その傷を包まれる。」 口語訳聖書

 「その傷を包まれ」

主は「心の打ち砕かれた者」をいやされる。(詩篇147:3) その傷を包まれる。漢字の「包」という字は「巳」が中にある形で、人が妊娠していることをあらわず。まだ生まれていない「子」が母の胎の中で静かに成長している。主は「心の傷」を子を孕む母のように抱き、新しいいのちに生み出されるまで、育まれる。

(心のデボーション5765)

心のデボーション5766

「されば汝ら愛せらるる子供のごとく、神に效ふ者となれ。」 エペソ5:1  大正文語訳聖書

「こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。」 口語訳聖書

 「カンガルーケア」

出産直後に母親が赤ちゃんを胸に抱くのを「カンガルーケア」という。これは、1970年代に南米コロンビアのボゴタ市の病院で、未熟児が院内感染によって死亡することを防ぐために始まったそうである。(山口創「愛撫・人の心に触れる力」NHKブックスより) これにより、母子の間に愛着形成が促され、その後の母子関係が良好になることが知られている。

(心のデボーション5766)

心のデボーション5767

「愛を追ひ求めよ、また靈の賜物、ことに預言する能力を慕へ。」 Ⅰコリント14:1  大正文語訳聖書

「愛を追い求めなさい。また、霊の賜物を、ことに預言することを、熱心に求めなさい。」 口語訳聖書

 「結婚の祝福」

教会の結婚式では指輪交換の時に「この指輪をもって汝をめとりわがものを汝のものとする」と誓う。結婚は相手のもっているものをすべて「わがもの」として引き受ける。しかし、不都合なものはたいてい結婚後に現れたり、わかったりするものだ。しかし、これはサギだなどと騒がないことだ。だまされた方も悪いのである。お互いの不都合なものと向き合うことで自分というものが育てられるのも結婚の祝福の一つだからである。

(心のデボーション5767)

心のデボーション5768

「これ汝らが心を一つにし口を一つにして、我らの主イエス・キリストの父なる神を崇めん爲なり。」 ロマ15:6  大正文語訳聖書

「こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように。」 口語訳聖書

 「心を合わせ」

「心を合わせὁμοθυμαδὸν」は「ὁμός同一の+ θυμός心」からなり同じ心で」の意。「声を合わせて」は「一つの口で」の意。私たちは「主イエス・キリストの父なる神をあがめる」ことにおいて、〔聖霊によって〕「心を合わせ、声を合わせる」ことができる。

(心のデボーション5768)

心のデボーション5769

「されど、汝の目あしくば、全身くらからん。もし汝の内の光、闇ならば、その闇いかばかりぞや」 マタイ6:23 大正文語訳聖書

「しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」 口語訳聖書

 「内なる目」

「内なる目」の「視力、視野」が闇に閉ざされると、無知と欺瞞がおとずれる。その暗さは「どれほどであろう πόσος  ポソス どれくらいの数(量、大きさ、程度、距離、時間、値段等)」に及ぶだろうか。「内なる目が濁る」と「死の暗黒」が訪れる。

(心のデボーション5769)

心のデボーション5770

「人もし其の親族、殊に己が家族を顧みずば、信仰を棄てたる者にて、不信者よりも更に惡しきなり。」 Ⅰテモテ5:8  

「もしある人が、その親族を、ことに自分の家族をかえりみない場合には、その信仰を捨てたことになるのであって、不信者以上にわるい。」 口語訳聖書

 「家族を顧みる」

「自分の家族をかえりみない」人は「信仰を捨てた」と言われる。(Ⅰテモテ5:8) 「信仰を捨てるἀρνέομαι」は「退ける、断る、打ち消す、取り消す、背く」の意。「自分の家族をかえりみない」人は「その信仰」も「顧みるπρονοέω」ことをしない。

(心のデボーション5770)

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