心のデボーション576

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心のデボーション5751

「隠微たる事は我らの神ヱホバに屬する者なりまた顯露されたる事は我らと我らの子孫に屬し我らをしてこの律法の諸の言を行はしむる者なり」 申命29:29  明治元訳聖書

「隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。」 口語訳聖書

 「隠された罪」

詩篇の作者は、「だれが自分のあやまちを知ることができましようか。どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください」と祈る。(詩篇19:12) 「あやまち」は時に「隠された罪」といわれる。「私の知らない罪」は神のものである。(詩篇29:29) それをあらわされるのも神であり、「律法のすべての言葉を行わせる」ためにあらわされるのである。

(心のデボーション5751)

心のデボーション5752

「われ臥していね また目さめたり ヱホバわれを支へたまへばなり」 詩篇3:5  明治元訳聖書

「わたしはふして眠り、また目をさます。主がわたしをささえられるからだ。」 口語訳聖書

 「休息」

ダビデはその子アブシャロムに反逆され、逃亡する時、荒野でこの詩をよんでいる。このような状況でダビデに眠りを与えて下さったのは神であった。疲れている人には、「もう、がんばらなくてもいい、休みなさい」といってくれる人が必要である。それ以上進めない人に「がんばれ」としかいえないと、ついには倒れてしまう。がんばることだけが信仰ではない。神が「休め」といわれる時には大胆に休むことだ。

(心のデボーション5752)

心のデボーション5753

「サムエルいひけるはヱホバはその言にしたがふ事を善したまふごとく燔祭と犠牲を善したまふや夫れ順ふ事は犠牲にまさり聽く事は牡羔の脂にまさるなり」 Ⅰサムエル15:22  明治元訳聖書

「サムエルは言った、/「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。」 口語訳聖書

 「傾聴」

信仰の行為の中で最も意味あるものは「傾聴」であろう。「傾聴」は神との対話であると共に自己との対話であって、それは同時になされる一つの行為である。「聴」という漢字は「真直ぐな心で耳を突き出して聞く」をあらわす。「神への傾聴」は「心」を正しく整える。

(心のデボーション5753)

心のデボーション5754

「かく云へるは、イエスを試みて、訴ふる種を得んとてなり。イエス身を屈め、指にて地に物書き給ふ。」 ヨハネ8:6  大正文語訳聖書

「彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。」 口語訳聖書

 「閉ざされた心」

心は一度閉ざされてしまうと容易には開かないものだ。無理にこじあけようとすると、ますます引きこもってしまう。その時は内側から開かれるのを待つしかない。姦淫の女が心を開いたのは、無遠慮な群集の視線にも背を向けて地面にものを書かれているイエスの後ろ姿に、自分の心の哀しさや孤独を感じたからではないか? イエスはいつもそのようにして私の心にそっと語りかけられる。

(心のデボーション5754)

心のデボーション5755

「互に虚言をいふな、汝らは既に舊き人とその行爲とを脱ぎて、」 コロサイ3:9  大正文語訳聖書

「互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、」 口語訳聖書

 「噓泣き」

イソップのお話に、狐と猿が旅をして、ある場所にくると猿がわっと泣く。理由を尋ねると猿はそこにある墓を指さして「奴隷であった祖先の墓を見て泣かずにはいられない」という。すると狐が「好きなだけ嘘をいうがよい、彼らの誰一人墓から生きあがって、君の言葉が嘘だという者はいないのだからね」と冷たく言い放つ。このお話の教訓は「噓つきはそれをあばくものがいない時には特に法螺を吹くものだ」というものだ。(「イソップ寓話集」 山本光雄訳 岩波書店1942/2)

(心のデボーション5755)

心のデボーション5756

「神の言は生命あり、能力あり、兩刃の劍よりも利くして、精神と靈魂、關節と骨髓を透して之を割ち、心の念と志望とを驗すなり。」 へブル4:12  大正文語訳聖書

「というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。」 口語訳聖書

 「学べば則ち固ならず」

論語に「子の曰わく、君子、学べば則ち固ならず」という。真に学ぶ者は頑固でなくなる。過ちがあれば即改める。いのちは柔軟でしなやかである。(「論語」金谷治訳 岩波書店1963/7)

(心のデボーション5756)

心のデボーション5757

「それ誰にても、有てる人は與へられて愈々豐ならん。されど有たぬ人は、その有てる物をも取らるべし。」 マタイ13:12  大正文語訳聖書

「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。」 口語訳聖書

 「富の惑わし」

裕福な男が結婚の相手に貧しい女を選んだ。その理由は、彼女ならつつましく質素な生活をしてくれるだろうし、与えられた生活を心から喜んでくれると思ったからだった。しかし、彼女は結婚すると貧しかった過去に復讐するかのように浪費する人に変わってしまった。彼女は、貧しさの中にあっても、貧しさを生きてはいなかったのである。男の動機があまりに不純であったためである。

(心のデボーション5757)

心のデボーション5758

「心せよ、若し互に咬み食はば相共に亡されん」 ガラテヤ5:15 大正文語訳聖書

「気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。」ガラテヤ5:15  口語訳聖書

 「互にかみ合う」

「互にかみ合うδάκνω」は「互いに魂を傷つける」の意で、「いがみ合い」である。そのようなことになればうす「あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう」。「滅ぼされるἀναλίσκω」は「焼き尽くされる」の意。「気をつけるがよいβλέπω」は「熟考するがよい」。

(心のデボーション5758)

心のデボーション5759

「されど、汝の目あしくば、全身くらからん。もし汝の内の光、闇ならば、その闇いかばかりぞや」 マタイ6:23 大正文語訳聖書

「しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」 口語訳聖書

 「慈悲深い目」

「慈悲深い目の人は祝福を受ける。彼は自分のパンを貧しい者に施すから」。(箴言22:6フランシスコ会訳聖書)

「慈悲深い目」は「良い目」である。もの事を、善意をもって見る。貧しい者には自分のパンを分け与える。

(心のデボーション5759)

心のデボーション5760

「人の心にある謀計は深き井の水のごとし 然れど哲人はこれを汲出す」 箴言20:5  明治元訳聖書

「人の心にある計りごとは深い井戸の水のようだ、しかし、さとき人はこれをくみ出す。」 口語訳聖書

 「心の深い井戸を守れ」

人の心には「深い井戸」があり、「さとき人」は、これからいのちをくみ出す。(箴言20:5) だが、「不正をたくらむ者」がそこに入り、ひそかにたくらみを計り、「だれがわれらの罪をたずね出すことができるか」と言う。(詩篇64:6) 「心の深い井戸」を守れ。「不正をたくらむ者」は「だれにも見破られないように」入り込む。(詩篇64:5)

(心のデボーション5760)

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