心のデボーション5731
「又なんぢらの中に在りて乏しかりしとき、誰をも煩はさず、マケドニヤより來りし兄弟たち我が窮乏を補へり。斯く凡ての事に汝らを煩はすまじと愼みたるが、此の後もなほ愼まん。」 Ⅱコリント11:9 大正文語訳聖書
「あなたがたの所にいて貧乏をした時にも、だれにも負担をかけたことはなかった。わたしの欠乏は、マケドニヤからきた兄弟たちが、補ってくれた。こうして、わたしはすべての事につき、あなたがたに重荷を負わせまいと努めてきたし、今後も努めよう。」 口語訳聖書
「キリストの重荷」
パウロは、「すべての事について」、教会に「重荷を負わせまい(ἀβαρής)と努めた」。(Ⅱコリント11:9) そのために自ら働いて宣教の旅を続けた。「重荷」はそれだけではなく、「霊的な重荷」を教会にかけることもしなかった。「霊的重荷」とは、当時の神殿を中心にして、信徒に「背負いきれない重荷をくくって、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために指一本貸そうともしない」「律法学者やパリサイ人たち」が意識されている。彼らは「意味のない重荷」を負わせ、そうすることに自己の存在意味を見出す指導者であった。
パウロの決意は、信徒に迷惑をかけまいとするものだけではなく、「キリストの重荷」を共に負う者となるようにとの積極的な勧めであった。「あなたがたとキリストの重荷を共に負うことを除いて、すべての事につき、あなたがたに重荷を負わせまい(ἀβαρής)と努めてきた」のである。
(心のデボーション5731)
心のデボーション5732
「十字架によりて怨を滅し、また之によりて二つのものを一つの體となして神と和がしめん爲なり」 エペソ2:16 大正文語訳聖書
「十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」 口語訳聖書
「かすかな敵意」
ダイレクトメールに、いちいち「当方では不用です。無駄をなさりませんように」という受取拒絶のメッセージを添えて返送する人がいる。封も切らずにゴミ箱に直行するよりも、受取拒絶のほうが相手への親切だと、この人は信じるのである。しかし、その善意にはかすかな敵意が含まれていないか? あからさまな敵意よりも、善意のからんだ敵意の方が、いつまでも人を傷つけるものだ。
(心のデボーション5732)
心のデボーション5733
「なんぢのいきほひの日になんぢの民は聖なるうるはしき衣をつけ 心よりよろこびて己をささげん なんぢは朝の胎よりいづる壯きものの露をもてり」 詩篇110:3 明治元訳聖書
「あなたの民は、あなたがその軍勢を/聖なる山々に導く日に/心から喜んでおのれをささげるであろう。あなたの若者は朝の胎から出る露のように/あなたに来るであろう。」 口語訳聖書
「喜びの魂」
「朽ちるべき体は魂の重荷となり、地上の幕屋は悩みに満ちた知性を圧迫します。」(旧約聖書外典知恵の書9:15 新共同訳聖書) 「朽ちるべき体」は「死すべき者」の意であろう。「悩みに満ちた知性」は「魂の重荷」となる。「知恵」によって救われる者の「体」はたとえ病むことがあっても「魂」を喜ばす。
(心のデボーション5733)
心のデボーション5734
「われら四方より患難を受くれども窮せず、爲ん方つくれども希望を失はず、」 Ⅱコリント4:8 大正文語訳聖書
「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。」 口語訳聖書
「行きづまり」
新しい街ではよく道に迷う。自分がどこにいるのか手がかりになるものもなく「途方にくれる」。パウロも「途方にくれる」ことがあると告白している。どうしたらよいかわからず、行きづまることがあるというのである。パウロは「しかし、私は行きづまることはありません」と断言する。行きづまりも「私のうちに働くならば、永遠の栄光をもたらす」、だから、「行きづまっても行きづまりっぱなしにはならない」というのである。
(心のデボーション5734)
心のデボーション5735
「なんぢら互に重を負へ、而してキリストの律法を全うせよ。」 ガラテヤ6:2 大正文語訳聖書
「互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。」 口語訳聖書
「手に余る重荷」
「お前の手に余る重荷を持ち上げるな」。(旧約聖書外典ベン=シラ書13:2 フランシスコ会訳聖書) その重荷が「手に余る」かどうかは、神からの重荷かどうかで決まる。神からの「重荷」は負えないものは何一つない。しかし、神からのものでない「重荷」はただ疲れさせるだけだ。たとえ「手に軽い」と感じても持ち上げようとするな.
(心のデボーション5735)
心のデボーション5736
「かく汝ら神の子たる故に、神は御子の御靈を我らの心に遣して『アバ、父』と呼ばしめ給ふ。」 ガラテヤ4:6 大正文語訳聖書
「このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。」 口語訳聖書
「父なる神」
「神」を「父なる神」と告白するのは、神が「わたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さった」ことによる。(ガラテヤ4:6) 人は神を知るために知性のすべてを尽くさねばならなない。しかし、神を「父なる神」と告白するのは、全く霊的な導きによいるのである。
(心のデボーション5736)
心のデボーション5737
「うれひ人の心にあれば之を屈ます されど善言はこれを樂します」 箴言12:25 大正文語訳聖書
「心に憂いがあればその人をかがませる、しかし親切な言葉はその人を喜ばせる。」 口語訳聖書
「不安の人」
箴言は不安のある人の心は「沈む」と語る。しかし、不安のある人が必ずうなだれているとは限らない。何かやましいことのある人は、逆にはしゃぐこともある。ウソを隠そうとして、不自然に明るくふるまったり、異常にしゃべりまくったりする。それは不安や心配をごまかすためで、やはり心は「沈んで」いるのかもしれない。人は明るいふるまいによっても不安を表現する。
(心のデボーション5737)
心のデボーション5738
「われらはきよき名にりたのめり 斯てぞわれらの心はヱホバにありてよろこばん」 詩篇33:21 大正文語訳聖書
「われらは主の聖なるみ名に信頼するがゆえに、われらの心は主にあって喜ぶ。」 口語訳聖書
「聖なるみ名に信頼せよ」
こころに喜びが感じられない時には、ます「主の聖なるみ名」を信ぜよ。主の御名を崇め、賛美せよ。「主の内にあることへの喜び」がよみがえってくる。賛美のあるところに失望はない。
(心のデボーション5738)
心のデボーション5739
「身の燈火は目なり。この故に汝の目ただしくば、全身あかるからん」 マタイ6:22 大正文語訳聖書
「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。」 口語訳聖書
「視力、視界の確かな人」
「目ὀφθαλμός」は「視力、視界」を意味する。「目が健全な人」は「視力、視界の確かな人」である。「視力、視界の確かな人」は、どこまで見通せるか、どこまで見渡せるか、どこまで見分けられるかで知られる。
彼は「見ること」を惜しまない。
(心のデボーション5739)
心のデボーション5740
「ヱホバよなんぢの道をわれに敎へたまへ我なんぢの眞理をあゆまん ねがはくは我をして心ひとつに聖名をおそれしめたまへ」 詩篇86:11 明治元訳聖書
「主よ、あなたの道をわたしに教えてください。わたしはあなたの真理に歩みます。心をひとつにしてみ名を恐れさせてください。」 口語訳聖書
「ひたむきな心」
「わたしはあなたの真理に歩みます。心をひとつにしてみ名を恐れさせてください」 詩篇86:11 「心をひとつにしてみ名を恐れさせてください」を、新改訳聖書「私の心を一つにしてください」、新共同訳聖書「御名を畏れ敬うことができるように一筋の心をわたしにお与えください」、フランシスコ会訳聖書「わたしがあなたのまことに従って歩むように、ひたむきな心をわたしに与え」と訳す。「私の心を一つにしてください」との祈りは「御名を畏れ敬う一筋の心」「神のまことに従って歩むひたむきな心」への願いである。
(心のデボーション5740)
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