心のデボーション5711
「斯てそのことばの驗をうるまでに及ぶ ヱホバのみことば彼をこころみたまへり」 詩篇105:19 明治元訳聖書
「彼の言葉の成る時まで、主のみ言葉が彼を試みた。」 口語訳聖書
「救いは近い」
ヨセフに与えられた神のことばが「成る時まで、主のみ言葉が彼〔ヨセフ〕を試みた」。(詩篇105:19) 本節のためにヒルティは「苦しみが最も大きい時、救いは最も近い」という諺を引用して「俗諺もこれを意味する」と言う。(ヒルティ「幸福論」秋山英雄訳 角川文庫865 昭和29年11月) 苦しみが大きくなる時、解決も近い。
(心のデボーション5711)
心のデボーション5712
「イエス之を見、いきどほりて言ひたまふ『幼兒らの我に來るを許せ、止むな、神の國は斯くのごとき者の國なり。』」 マルコ10:14 大正文語訳聖書
「それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。」 口語訳聖書
「天使のハネ」
いずみちゃんは今年サンタさんに天使のハネを頼んだ。それで空を飛んでみたかったのである。お母さんは困って、「あのな、サンタさんは世界中の子どもにプレゼントをあげなあかんのだで。サンタさんにも予算なんてのがあってな、ハネはなあ…」と真顔で話してあきらめさせ、「じゃあ、TVゲーム」というのは無視して「ポケモンのスクーター」にしたそうである。しかし、本当はお母さんはいずみちゃんに天使のハネをあげたいと心から思ったのだ。
(心のデボーション5712)
心のデボーション5713
「即ち虚假と謊言とを我より離れしめ 我をして貧からしめずまた富しめず 惟なくてならぬ糧をあたへ給へ」 箴言30:8 明治元訳聖書
「うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。」 口語訳聖書
「嘘」
嘘はいわないことだ。しかし、そのためにつく嘘もある。本当のことならいってよいわけでもない。そのためにつく嘘もある。
(心のデボーション5713)
心のデボーション5714
「先づダマスコに居るもの、次にエルサレム及びユダヤ全國、また異邦人にまで、悔改めて神に立ちかへり、其の悔改にかなふ業をなすべきことを宣傅へたり。」 使徒26:20 大正文語訳聖書
「まず初めにダマスコにいる人々に、それからエルサレムにいる人々、さらにユダヤ全土、ならびに異邦人たちに、悔い改めて神に立ち帰り、悔改めにふさわしいわざを行うようにと、説き勧めました。」 口語訳聖書
「悪癖の役割」
悔い改めては元に戻り、同じことを再び悔い改めるというのは苦しい。ただ、悔い改める前に、その悪癖が自分の精神構造の中でどのような役割を果たしているのかを考えてみる。悪癖がなんらかの自己表現になっている場合もある。それがわかれば、悪癖によらない自己表現の仕方もわかってくる。「悔い改めにふさわしい行い」を欠いたまま、悔い改めを繰り返すことが問題なのだ。
(心のデボーション5714)
心のデボーション5715
「伝道者は麗しい言葉を得ようとつとめた。また彼は真実の言葉を正しく書きしるした。」 伝道12:10 明治元訳聖書
「伝道者は適切なことばを見いだそうとし、真理のことばを正しく書き残した。」 口語訳聖書
「情報」
情報は多ければよいだろうか? 集め始めると膨大な情報が集まる。しかし、大切なのは、心に何が記憶されたかである。膨大な情報から必要なものを抽出するシステムが必要だ。それがあればいかに情報が多くても、潰されるようなことはない。そのシステムとは「心」のことだ。
(心のデボーション5715)
心のデボーション5716
「汝らは己が父惡魔より出でて、己が父の慾を行はんことを望む。彼は最初より人殺なり、また眞その中になき故に眞に立たず、彼は虚僞をかたる毎に己より語る、それは虚僞者にして虚僞の父なればなり。」 ヨハネ8:44 大正文語訳聖書
「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。」 ヨハネ8:44 口語訳聖書
「悪魔の子」
彼らはイエスにわたしたちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは、一度もない」と言った。しかし、イエスは「もしアブラハムの子であるなら、アブラハムのわざをするがよい」と答えられ、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている」と宣言された。彼らは「アブラハムの子」と自認しながら、知らずして「悪魔の子」である。人は何と無自覚に「悪魔の子」であることか。
(心のデボーション5716)
心のデボーション5717
「愛しむに時あり惡むに時あり 戰ふに時あり和ぐに時あり」 伝道3:8 明治元訳聖書
「愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。」 口語訳聖書
「退くこと」
言い争いで勝つのは、退くことを知っている人である。一歩も譲れない人は、ひたすら押しまくる。そして、気がつくと自分一人が土俵に残されて、相手はいなくなっている。難しいのは、退き方である。退くとは、自分を引き上げることではなく、相手を自分に引きつけることではないか? 本当の戦いを知る人は、相手をとことん追いつめてしまわない。
(心のデボーション5717)
心のデボーション5718
「又なんぢらの中に在りて乏しかりしとき、誰をも煩はさず、マケドニヤより來りし兄弟たち我が窮乏を補へり。斯く凡ての事に汝らを煩はすまじと愼みたるが、此の後もなほ愼まん。」 Ⅱコリント11:9 大正文語訳聖書
「あなたがたの所にいて貧乏をした時にも、だれにも負担をかけたことはなかった。わたしの欠乏は、マケドニヤからきた兄弟たちが、補ってくれた。こうして、わたしはすべての事につき、あなたがたに重荷を負わせまい(ἀβαρής)と努めてきたし、今後も努めよう。」 Ⅱコリント11:9
「わたしの荷は軽い」
パウロは教会の信徒に経済的にも、霊的にも「重荷(βάρος, φορτίον)」とならないために、自ら働きながら宣教した。主イエスは「わたしの荷は軽い(φορτίον)」と言われ、人々の霊的な負担を軽くすることを約束された。(マタイ11:29-30) 「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 わたしのくびき(ζυγός、ヘブル語[עֹל] (ʿol) – 「くびき、負担、重荷」)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。(マタイ11:29-30)
(心のデボーション5718)
心のデボーション5719
「身の燈火は目なり。この故に汝の目ただしくば、全身あかるからん」 マタイ6:22 大正文語訳聖書
「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。」 口語訳聖書
「70億分の1の私」
「私」という視点に立つ人は、人間の数だけの自分とは異なる視点のあることを認める。世界に70億の人がおれば、70億の私とは異なる「私」が存在する。そして、70億の「私」があっても、それとは異なる一つの「私」のあることを認める。それは、私が他の70億とどう異なるかを知っているということである。すなわち70億分の1の「私」の存在意味が分かるということである。
(心のデボーション5719)
心のデボーション5720
「かく汝ら神の子たる故に、神は御子の御靈を我らの心に遣して『アバ、父』と呼ばしめ給ふ。」 ガラテヤ5:6 大正文語訳聖書
「あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ(αββα ὁ πατήρ)」と呼ぶ御子の霊を送って下さった」。ガラテヤ4:6 口語訳聖書
「アバ父」
「アバ、父よ(αββα ὁ πατήρ)」は神に呼びかける祈りの言葉である。「アバαββα」が「お父ちゃん」という親しみをこめた意味があることから、祈りの中で「お父ちゃん」と呼ぶ人もいると聞く。フランシスコ会訳聖書は「お父様」、山浦玄嗣訳は「とど様」と訳す。神と二人きりの祈りの中では、「子たる身分を授ける霊」の導きにしたがって、もっとも親しみをこめた呼びかけをするがよい。
(心のデボーション5720)
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