心のデボーション571

デボーション1
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心のデボーション5701

「又この貴き位はアロンのごとく神に召さるるにあらずば、誰も自ら之を取る者なし。」 へブル5:4  大正文語訳聖書

「かつ、だれもこの栄誉ある務を自分で得るのではなく、アロンの場合のように、神の召しによって受けるのである。」 口語訳聖書

 「祭司職」

大祭司は「人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者」(へブル5:1)であり、「自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができると共に、その弱さのゆえに、民のためだけではなく自分自身のためにも、罪についてささげものを」する者であった。(へブル5:2-3)

「栄誉ある務め」を意味するギリシャ語は「τιμή」で、この語には「代価」の意味もある。神は「〔高い〕代価(τιμή)を払って〔あなたがたを〕買いとられ」(Ⅰコリント6:20)、あなたがたに「栄誉ある務め(τιμή)」を与えられる。

すべて、神に従う人はイエスにあって「神の大祭司」であり、「だれもこの栄誉ある務を自分で得るのではなく、アロンの場合のように、神の召しによって受けた」のである。」(へブル5:4)

(心のデボーション5701)

心のデボーション5702

「かれは侮られて人にすてられ 悲哀の人にして病患をしれり また面をおほひて避ることをせらるる者のごとく侮られたり われらも彼をたふとまざりき」 イザヤ53:3 明治元訳聖書

「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。」 口語訳聖書

 「悲しみの人」

「主の僕」は「悲しみの人で病を知っていた」と語られる。「悲しみの人」は「痛みを知る人」とも訳せる。

ヘブル語で「知る」は、「自らの痛みを通して知る」ことで、自ら痛むことなく「知る」とはいわない。僕イエスは、きっと私と同じように病んだことがあり、それで私の痛みを「になって」くださるのである。人はすべての人の痛みをになうことはできないが、自分の痛んだ痛みの分だけ人をになうことができるのである。

(心のデボーション5702)

心のデボーション5703

「神其像の如くに人を創造たまへり即ち神の像の如くに之を創造之を男と女に創造たまへり」 創世記1:27  明治元訳聖書

「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」 口語訳聖書

 「夫婦としての人間」

「神が創造されたものは個別的人間ではなくて、共同体すなわち夫婦であった。」(パウル・トゥルニエ「聖書と医学」聖文舎1970/1)人の内には「ひとりの他者」がいて自己と語らい、新しいいのちを宿す。

(心のデボーション5703)

心のデボーション5704

「神は艱難者を艱難によりて救ひ 之が耳を虐遇によりて開きたまふ」 ヨブ36:15  明治元訳聖書

「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、/彼らの耳を逆境によって開かれる。」 口語訳聖書

 「悩む力」

悩みにあうと、するりと身をかわしてしまう器用な人もいる。それでは、上手に身をかわす方法は覚えられても、「悩む力」は身につかない。神は悩む人を、その悩みの只中で助けられる。私たちの耳は、悩みの中で「開かれる」。悩みの中で神の声を聴けた、ただ、それだけでも、悩みは消えなくても悩む意味はあったと思える。

(心のデボーション5704)

心のデボーション5705

「智慧をえ聰明をえよ これを忘るるなかれ また我が口の言に身をそむくるなかれ」 箴言4:5  明治元訳聖書

「それを忘れることなく、またわが口の言葉にそむいてはならない、知恵を得よ、悟りを得よ。」 口語訳聖書

 「賢賢易色」

論語に「賢賢易色」という。「すぐれた人をすぐれた人とし、美人を好むがごとくにせよ」の意。賢者にあったら恋人のように慕えという。「私は賢者ではない」と言う人が本当の賢者だ。

(心のデボーション5705)

心のデボーション5706

「このゆゑに公平はとほくわれらをはなれ正義はわれらに追及ず われら光をのぞめど暗をみ 光輝をのぞめど闇をゆく」 イザヤ58:9  明治元訳聖書

「また、あなたが呼ぶとき、主は答えられ、あなたが叫ぶとき、『わたしはここにおる』と言われる。もし、あなたの中からくびきを除き、指をさすこと、悪い事を語ることを除き、」 口語訳聖書

 「聖寵再び戻り」

神は「あなたが呼ぶとき、主は答えられ、あなたが叫ぶとき、『わたしはここにおる』と言われる」(イザヤ58:9)。

「されば、爾の聖寵再び戻りて、そして爾が私の内なる心に語りたもふそれまでは、私は、黙すまい、又祈るを止めぬだらう」。(アケンピス「基督のまねび」内村達三郎訳 春秋社昭和21/ 2より)

(心のデボーション5706)

心のデボーション5707

「幾日も經ぬに、弟おのが物をことごとく集めて、遠國にゆき、其處にて放蕩にその財産を散せり。」 ルカ15:13  大正文語訳聖書

「それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。」 口語訳聖書

 「離す心」

放蕩息子の父親は息子が成人すると、息子のしたいようにさせる。子どもはいつか、何もかもまとめて遠い国に旅立つ。その日のために、親は「離す心を用意」しておかなければならない。「離す心」は「離れ行くことを許さない心」と一つで、共に愛から出る。その準備はいつからはじめるかというよりも、子育てのはじめから用意しなければならないようだ。祈りの心である。

(心のデボーション5707)

心のデボーション5708

「凡そ事忍び、おほよそ事信じ、おほよそ事望み、おほよそ事耐ふるなり。」 Ⅰコリント13:7  大正文語訳聖書

「そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」 口語訳聖書

 「愛を以て」

内村鑑三は「愛を以てするにあらざれば何事も為すべからず、愛を以てするにあらざれば怒るべからす、」と言う。(内村鑑三『内村鑑三随筆集』 岩波文庫832-833) しかし、「愛ゆえに」という行為が激しい怒りを引き起こすことがある。「事をなさず」という愛もある。

(心のデボーション5708)

心のデボーション5709

「身の燈火は目なり。この故に汝の目ただしくば、全身あかるからん」 マタイ6:22 大正文語訳聖書

「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。」 口語訳聖書

 「目の澄んだ人」

「目の澄んだ人」というのは、「視力、視界」の確かな人であって、「目つき」のことではない。顔つきからわかるものではない。「あの人は目が澄んでいるから心の綺麗な人だ」というのはアテにはならない。「目つきが悪い」が「心が澄んでいる人」もいる。無論、マタイの「澄んだ目」は「目つき」のことではなく、「物事を正しく見分ける目」のことである。

(心のデボーション5709)

心のデボーション5710

「賢者は災禍を見てみづから避け 拙者はすすみて罰をうく」 箴言22:3  明治元訳聖書

「賢い者は災を見て自ら避け、思慮のない者は進んでいって、罰をうける。」 口語訳聖書

 「両頭の蛇」

李翰の「蒙求 / 叔敖陰徳」に「両頭の蛇」の話がある。頭が二つある「両頭の蛇」を見た者は必ず死ぬとされ、ある日、子どもがそれを見て泣きながら帰宅する。すると母親が「今、その蛇はどこにいるのか?」と尋ねる。子どもは「他の人が見ないように穴に埋めた」と言う。すると、母親は「有陰徳者、天報以 福」と答える。陰で良いことをすれば、天は幸いをもって報いるから、安心しなさい」というのである。良き母は子の不安をよく除く。

(心のデボーション5710)

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