心のデボーション5691
「この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦勞は一日にて足れり。」マタイ6:34 大正文語訳聖書
「然れば明日の為に思煩ふこと勿れ、明日は明日自、己の為に思煩はん、其日は其日の勞苦にて足れり。」 口語訳聖書
「明日は明日と共に」
「習慣的に常にただ今日のためにのみ働くがよい。明日はおのずからにして来るのであり、明日とともに新しい明日の力もまた訪れるのである」。(ヒルティ「幸福論」秋山英雄訳 角川文庫865 昭和29年11月)
このヒルティの言葉はマタイ6:33-34の最良の解釈の一つである。今日に働く力は、明日を生きる力をも約束する。
(心のデボーション5691)
心のデボーション5692
「凡て心に感じたる者凡て心より願ふ者は來りてヱホバへの献納物を携へいたり集會の幕屋とその諸の用に供へ又聖衣のために供へたり」 出エジプト35:21 明治元訳聖書
「すべて心に感じた者、すべて心から喜んでする者は、会見の幕屋の作業と、そのもろもろの奉仕と、聖なる服とのために、主にささげる物を携えてきた。」 口語訳聖書
「感動」
会見の天幕を造るのは聖なる奉仕だった。「感動した者、心から進んでする者」がモーセの前に集まった。「感動した者」ということばは直訳では「彼の心を彼に上げた者」である。もう何事にも感動しなくなってしまったと考えていないだろうか? 深い感動は、ただ待っていておこるものではない。心を自らに上げてみることだ。小さな石を一つ除いてみるとその下に感動が隠れていたりする。
(心のデボーション5692)
心のデボーション5693
「然れど福音の眞理の汝らの中に留らんために、我ら一時も彼らに讓り從はざりき」 ガラテヤ2:5 大正文語訳聖書
「わたしたちは、福音の真理があなたがたのもとに常にとどまっているように、瞬時も彼らの強要に屈服しなかった。」 口語訳聖書
「不撓不屈」
「不撓不屈」という。「撓」は「たわむ」で強い力が加えられて曲がること。「不撓」も「不屈」も共に「諦めず、屈しない」を意味し、二つを重ねることで「決して屈しない」強い意思をあらわす。ただ固いだけではなく、強く曲げられても折れない、しなやかさをもつ強さか。
(心のデボーション5693)
心のデボーション5694
「またヱホバ宣給ふ なんぢ虫にひとしきヤコブよイスラエルの人よ おそるるなかれ我なんぢをたすけん汝をあがなふものはイスラエルの聖者なり」 イザヤ41:14 明治元訳聖書
「主は言われる、「虫にひとしいヤコブよ、イスラエルの人々よ、恐れてはならない。わたしはあなたを助ける。あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。」 口語訳聖書
「虫けらのヤコブ」
退けられたり、否定されると気がふさぐ。自分が「虫けら」のように小さくて意味もなく思える。しかし、どんなに小さくても、人にはそれぞれのいのちがあり、慰めがある。「虫けらのヤコブ」の耳だけが、「恐れるな、わたしはあなたを助ける」とささやかれる神のかすかな声を聴き取る。退けられたら、むきになって自分を主張しないことだ。「虫けらのヤコブ」にも意味が感じられるだけで充分ではないか。
(心のデボーション5694)
心のデボーション5695
「そは神の我らに賜ひたるは、臆する靈にあらず、能力と愛と謹愼との靈なればなり。」 Ⅱテモテ1:7 大正文語訳聖書
「というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。」 口語訳聖書
「不苟」
「非其義也、餓不苟食」は「道義にかわなかければ、たとえ飢えてもとりあえず食べない」の意。「不苟」は食べ物にだけでなく、さまざまなことに求められる。
(心のデボーション5695)
心のデボーション5696
「欺きとりし糧は人に甜し されど後にはその口に沙を充されん」 箴言20:17 明治元訳聖書
「欺き取ったパンはおいしい、しかし後にはその口は砂利で満たされる。」 口語訳聖書
「口に砂利」
「欺き取ったパン」は、最初は「口に甘い」が、後に「その口は砂利で満たされる」。(箴言20:17)「
砂利חָצָֽץ׃ (ḥā·ṣāṣ)」は「噛むことのできないもの、小石、砂利」で不快感を与えるだけでなく、その歯を折って痛みを与える。「彼は小石をもって、わたしの歯を砕き、灰の中にわたしをころがされた」。(哀歌3:16)
(心のデボーション5696)
心のデボーション5697
「ヱホバの祝福は人を富す 人の勞苦はこれに加ふるところなし」 箴言10:22 明治元訳聖書
「主の祝福は人を富ませる、主はこれになんの悲しみをも加えない。」 口語訳聖書
「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。」 新共同訳聖書
「祝福の豊かさ」
箴言10:22の後半は「主はこれになんの悲しみをも加えない」(口語訳聖書)と「人間が苦労しても何も加えることはできない」(新共同訳聖書)の二つの訳がある。「悲しみ」を意味するヘブル語「עֶצֶב」(etsev)」には「痛み、苦痛」の意味がある。主の祝福からくる「豊かさ」は、いかなる悲しみも含まず、人がこれに加える必要は何一つない。
(心のデボーション5697)
心のデボーション5698
「愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬まず、愛は誇らず、驕らず、」 Ⅰコリント13:4 大正文語訳聖書
「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。」 口語訳聖書
「鼻切りの話」
江戸時代の笑話集「醒睡笑(せいすいしょう)」に「ある男が重い病気になり、女房に自分への操の証として鼻を削いで欲しいというと、女房は「それは容易いこと」と自分の鼻を削ぎ落す。しかし、男の病が回復すると「鼻欠け女房」を見るのが辛くなり「すまないが隠居してくれまいか」と勝手なことを言う。これには女房も怒ってお上に訴えると「その男の鼻を削げ」と申し渡され、二人は共に「鼻欠け」となり、縁が戻った」という話がある。(「鼻切りの話」)
年をとっても仲の良い夫婦はみな「鼻欠け夫婦」のようだ。
(心のデボーション5698)
心のデボーション5699
「なんぢの財寶のある所には、なんぢの心もあるべし」 マタイ6:21 大正文語訳聖書
「あなたの宝のある所には、心もあるからである」 口語訳聖書
「正しく使う」
「富」も「知」も貯えるだけでは意味がない。富も知恵も正しく使われることで意味ある宝となる。
(心のデボーション5699)
心のデボーション5700
「なんぢら人を審くな、審かれざらん爲なり。」 マタイ7:1 大正文語訳聖書
「人をさばくな。自分がさばかれないためである。」 口語訳聖書
「毛を吹きて小疵を求めず」
韓非子に「毛を吹きて小疵を求めず」と言う。動物の毛を吹き分けて「小さな疵」を暴くようなことをすれば、かえって自分の悪が露見する。
(心のデボーション5700)
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