心のデボーション5671
「聖徒の缺乏を賑し、旅人を懇ろに待せ、」 ロマ12:13 大正文語訳聖書
「貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。」 口語訳聖書
「お道忘れ」
金沢では訪れた人をお茶と和菓子でもてなす習慣がある。しかし不意の来客でお菓子の準備がないときは、来客からの頂き物のお菓子を「お道忘れですが」と出すことがある。また、お客さまが菓子を食べなかったときには、敷いてあった懐紙などで包んで持ち帰っていただくのを「お道忘れ」といい、帰り道でお腹がすいたときにはお召し上がりくださいとの心配りである。いただいてうれしく思うような「おもたせ」は心を温める。「もてなし」を意味する聖書のギリシャ語φιλοξενίαは「見知らぬ土地での助けを必要とする人への愛」の意味である。
(心のデボーション5671)
心のデボーション5672
「されば虚僞をすてて各自その隣に實をかたれ、我ら互に肢なればなり。」 エペソ4:25 大正文語訳聖書
「こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互に肢体なのであるから。」 口語訳聖書
「ウソの作文」
安野光雄さんが教員をしていた頃、子どもに「今日はほんとうのことを書いてはいけない。ウソの作文を書きなさい」というと、なぜか本当のことを書く子どもが多かったそうである。ウソでいいとなると安心して本当のことが書けるらしい。大人も案外この手を使って「これはあり得ないことだけど」とことわりながら本当のことをしゃべったりする。いつも「真実」を語るべきだが、その方法は色々ある。
(心のデボーション5672)
心のデボーション5673
「ヤコブの子ユダとイスカリオテのユダとなり。このユダはイエスを賣る者となりたり」 ルカ6:16 大正文語訳聖書
「ヤコブの子ユダ、それからイスカリオテのユダ。このユダが裏切者となったのである。」 口語訳聖書
「裏切り」
日本語で「裏切り」というときの「裏」は「外からは見えない内面」を「うら」すなわち「心」の意味である。「切る」は「関係を断つ」で、「信頼を断つ」で、約束や期待に対して、心の内奥の信頼を断つ行為を意味する。
「裏切者」を意味するギリシャ語は「προδότης」で、この語は「人の手に引き渡す」からきている。ユダは心の内からイエスを切り離し、敵に渡したのである。
(心のデボーション5673)
心のデボーション5674
「惡目をする者の糧をくらふことなく その珍饈をむさぼりねがふことなかれ」 箴言23:6 明治元訳聖書
「物惜しみする人のパンを食べてはならない、そのごちそうをむさぼり願ってはならない。」 口語訳聖書
「貪欲な人のごちそう」
「貪欲な人のごちそうをほしがるな」という箴言に説明はいらない。彼は「食え、飲め」といいながら、その心は別のソロバンをはじく。「貪欲な人」は直訳で「目つきの悪い人」と訳す。ちなみにブル語で「目つきの良い人」が「善意の人」である。(箴言23:9) しかし、目つきが良いのに貪欲な人もいて、上手にごちそうをふるまおう
とすることもあり、「目つき」で相手を判断するには、よほど注意する必要がある。
(心のデボーション5674)
心のデボーション5675
「わが神よわれは聖意にしたがふことを樂む なんぢの法はわが心のうちにありと」 詩篇40:8 大正文語訳聖書
「わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」と。」 口語訳聖書
「とにかく始め給え」
「(序論と本論の別なく)君にとって一番やさしいところから始め給え、ともかく始め給え、完全に体系的にやらないために、仕事の手順の上で回り道をすることになるかもしれないが、そういうことは時間を得ることによって、まだお釣りがくるくらいのものだ」。(カール・ヒルティ「幸福論」(第二部)岩波文庫青638-4 1962/1)
このヒルティの言葉は、行き詰まったときに役にたつ。自分にとって一番やさしいところから始めればよいのだ。
(心のデボーション5675)
心のデボーション5676
「わが到るまで、讀むこと勸むること教ふる事に心を用ひよ」 Ⅰテモテ4:13 大正文語訳聖書
「わたしがそちらに行く時まで、聖書を朗読することと、勧めをすることと、教えることとに心を用いなさい。」 口語訳聖書
「教うるは学ぶのなかば」
「教うるは学ぶのなかば」と言われる。(「書経―説命・下」、「礼記」にも同様のことば有)学んだことを人に教えるには中途半端にはできない。人は学んだことを人に教えることで自分の学びの乏しさを知る。学んだことは教えることでさらに深まる。
(心のデボーション5676)
心のデボーション5677
「ヱホバかくいひたまふ汝ら途に立て見古き徑に就て何か善道なるを尋ねて其途に行めさらば汝らの靈魂安を得ん然ど彼らこたへて我儕はそれに行まじといふ」 エレミヤ6:16 明治元訳聖書
「主はこう言われる、「あなたがたはわかれ道に立って、よく見、いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ねて、その道に歩み、そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ。しかし彼らは答えて、『われわれはその道に歩まない』と言った。」 口語訳聖書
「おかあーさん」
夕方になると福祉作業所に通っている娘さんがバスで帰ってくる。バスに大きな声で「バイバイ」といった後、決まって、出迎えた母親に「おかあーさん」と声をかける。「おかあー」と伸ばして、可愛らしく「さん」と結ぶ。この娘さんはそれくらいの言葉しか話せまない。しかし、何と豊かに語ることだろうか。心が素直に聞いてしまう。たましいはここに憩う。
(心のデボーション5677)
心のデボーション5678
「善人はヱホバの恩寵をうけ 惡き謀略を設くる人はヱホバに罰せらる」 箴言12:2 明治元訳聖書
「善人は主の恵みをうけ、悪い計りごとを設ける人は主に罰せられる。」 口語訳聖書
「善き名」
「最も大いなる最善は人を呼ぶに善き名を以てするにあり、」人を呼ぶに奸物を以てせよ、彼は遂に奸物たらざるも或いは竟に奸物たるに至らん」(内村鑑三『内村鑑三随筆集』 岩波文庫832-833) 人を「奸物(悪知恵のはたらく心のひねくれた人)」と呼べば、彼は「奸物」ではなくても、ついには「奸物」になる。ひとを「善き名」をもって呼べば、彼は「善人」でなくても、ついには「善人」になると内村は言う。
(心のデボーション5678)
心のデボーション5679
「なんぢの財寶のある所には、なんぢの心もあるべし」 マタイ6:21 大正文語訳聖書
「あなたの宝のある所には、心もあるからである。」 口語訳聖書
「富」
「富」は τίθημι「納める、安置する」から来る言葉で「貯蔵室、宝庫、財宝」を意味する。宝を入れる箱が「富」である。「富」は宝の入った容器である。そこには財宝が入れてある。そこに蓄えられたものを見れば「心」がわかる。「宝」をおさめる場所を見出す人は幸いである。それが彼の何よりの「宝」である。
(心のデボーション5679)
心のデボーション5680
「銀を好む者は銀に飽こと無し 豊富ならんことを好む者は得るところ有らず 是また空なり」 伝道5:10 明治元訳聖書
「金銭を好む者は金銭をもって満足しない。富を好む者は富を得て満足しない。これもまた空である。」 口語訳聖書
「うつけ」
松枝到さんの「ユーモアと笑いの至福」にあるお話。ある男が「必ず人の目には蛇に、われには銭に見えるように」と言いながら持っている銭を地中に埋める。陰でそれを聞いた者が、銭を掘り出し、代わりに蛇をいれておいた。男が銭を掘り出すと蛇がでてきたので、「俺じゃ、俺じゃ、見忘れたか」と幾度も名乗るが、銭にはならなかった。(松枝到「ユーモアと笑いの至福」平凡社1989/5より) この男は、その後、野で蛇を見るたびに「俺だ、俺だ」と叫ぶに違いない。
(心のデボーション5680)
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