心のデボーション566

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心のデボーション5651

「すべて求むる者は得、たづぬる者は見いだし、門をたたく者は開かるるなり。」 マタイ7:8  大正文語訳聖書

「すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。」 口語訳聖書

 「ぶんちゃん」

TRILLニュースで読んだお話。散歩をしようと思ったら犬の「ぶんちゃん」が脱走し、家族で探し回り、お父さんがバイクで探し始めたところ、「ぶんちゃん」がバイクの後ろから元気に走っていた。何かを懸命に探していると、探しているものが後ろから懸命に追いかけてくる。探すことに懸命になりすぎて、それが探し物が見えなくなるなら、止まって後ろを見ることだ。ちゃんとついてきている。

(心のデボーション5651)

心のデボーション5652

「かつ旅のために、杖一つの他は、何をも持たず、糧も嚢も帶の中に錢をも持たず、」 マルコ6:8  大正文語訳聖書

「また旅のために、つえ一本のほかには何も持たないように、パンも、袋も、帯の中に銭も持たず、」 口語訳聖書

 「用心金」

イエスは弟子たちを遣わされるとき「旅のために杖一本のほかは何も持って行ってはいけません」と命じられた。若い伝道者がこれを真似て、財布を持たずに文無しの旅に出たという。人に迷惑をかけることは信仰とはいえない。イエスの時代には、旅人に宿を提供し、衣服や食事をもてなす習慣が社会にあったのである。現代では、用心金を持つことが信仰ではないだろうか? 

(心のデボーション5652)

心のデボーション5653

「然れば我が愛する兄弟よ、確くして搖くことなく、常に勵みて主の事を務めよ、汝等その勞の、主にありて空しからぬを知ればなり」 Ⅰコリント15:58  大正文語訳聖書

「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」 口語訳聖書

 「仕事」

栃木の民話に「馬で土を耕すのは一人ではできない」というお話がある。それには一人が「人参」を馬の鼻先にさげて歩き、一人が馬の口をとるのだという。「馬」が心的エネルギーだとすれば、「私が仕事をする」には、ご褒美の「人参」と、轡をとるものが必要ということか。

(心のデボーション5653)

心のデボーション5654

「我また日の下に患の大なる者あるを見たり すなはち財寶のこれを蓄ふる者の身に害をおよぼすことある是なり」 伝道5:13 明治元訳聖書

「わたしは日の下に悲しむべき悪のあるのを見た。すなわち、富はこれをたくわえるその持ち主に害を及ぼすことである。」 口語訳聖書

 「間延びした強化」

たまたま勝って、そのゲームにのめりこむのを「間延びした強化」という。パチンコで、いつも勝つよりも、たまたま勝つほうがやみつきになるのがそれである。人は確実にむくわれるよりも、不意に与えられる報酬の方がうれしく感じられる。そう度々あるものではない、しかし、わすれそうになるとやってくる「幸運」が人をとりこにする。そして、その「幸運」はたいてい人を不幸にするようだ。

(心のデボーション5654)

心のデボーション5655

「なんぢ侯たる者とともに坐して食ふときは 愼みて汝の前にある者の誰なるかを思へ」 箴言23:1  明治元訳聖書

「治める人と共に座して食事するとき、あなたの前にあるものを、よくわきまえ、」 口語訳聖書

 「人を欺く食物」

箴言23:1-3には「治める人と共に座して食事するとき、あなたの前にあるものを、よくわきまえ、あなたののどに刀をあて、そのごちそうをむさぼり食べてはならない、これは人を欺く食物だからである」とある。「のどにあてられる刀」とは「人を欺く食物」のことか、あるいは「欺きの食物に手をのばすことへの警戒」か。いずれにしても「治める人の家での食事」には警戒すべきである。

(心のデボーション5655)

心のデボーション5656

「艶麗はいつはりなり 美色は呼吸のごとし 惟ヱホバを畏るる女は譽られん」 箴言31:30  明治元訳聖書

「あでやかさは偽りであり、美しさはつかのまである、しかし主を恐れる女はほめたたえられる。」 口語訳聖書

 「紅一点」

女性は「紅一点が平気」という。そういえば「紅一点」はあっても「緑一点」はない。そもそも「紅一点」は「青葉の中にたった一輪咲く赤い花」のことだからである。女性はみな「紅一点」である。「紅一点」に対して男の「緑一点」などあるはずもない。

(心のデボーション5656)

心のデボーション5657

「此のとき我に反りて言ふ『わが父の許には食物あまれる雇人いくばくぞや、然るに我は飢ゑてこの處に死なんとす。』」 ルカ15:17  大正文語訳聖書

「そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。』」 口語訳聖書

 「我に返る」

「我に返るεἰς ἑαυτὸν δὲ ἐλθὼν」は本心を取り戻すことである。放蕩息子は一人になって自分というものを考えたに違いない。人生をいいかげんに生きると、いつか転落がはじまる。何よりこわいのは、人生をごまかしているうちに、自分自身をごまかすようになることである。本気になって生きれば、人生はどこからでもやり直しができる。自分について考えるには、一時的にでも、今の生活から離れたところに身を置くとよいかもしれない。

(心のデボーション5657)

心のデボーション5658

「善惡を辨へ知り、キリストの日に至るまで潔よくして躓くことなく」 ピリピ1:10  明治元訳聖書

「それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、」 口語訳聖書

 「御言葉を持ちゆく器」

「あなたがたが、何が重要であるかを判別することができεἰς τὸ δοκιμάζειν ὑμᾶς τὰ διαφέροντα」。(ピリピ1:10) 「判別するδιαφέρω」の基本的意味は「信仰生活の中で、何がより重要であるかを見極める能力」であり、「φέρω (phérō)が「運ぶ、持つ、もたらす」の意味であることから、「信仰生活の中で、何がより重要であるかを見極めた上で、それを実践する、または他者に伝えるために持ち運ぶ」行為を指しているとも考えられる。

「何が重要であるかを判別する人」は「御言葉を持ちゆく器」である。

(心のデボーション5658)

心のデボーション5659

「なんぢら己がために財寶を天に積め、かしこは蟲と錆とが損はず、盜人うがちて盜まぬなり」 マタイ6:20 大正文語訳聖書

「むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。」 口語訳聖書

 「富」

「しみも錆も盗人も」損なうことのできないものが「富」である。その為には、持てるものすべて投じても惜しくはない。老年になると「しみも錆も盗人も損なうことのできない富」を持てるか否かが問われる。

(心のデボーション5659)

心のデボーション5660

「それ我らの福音の汝らに至りしは、言にのみ由らず、能力と聖靈と大なる確信とに由れり。且われらが汝らの中にありて汝らの爲に如何なる行爲をなししかは、汝らの知る所なり。」 Ⅰテサロニケ1:5  大正文語訳聖書

「なぜなら、わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからである。わたしたちが、あなたがたの間で、みんなのためにどんなことをしたか、あなたがたの知っているとおりである。」 口語訳聖書

 「強い確信」

「福音」は「力と聖霊と強い確信」によって伝えられる。「強い確信plhrofori,a」は「全き確信」である。「全き確信」は「聖霊」によって与えられ、「力(神の業)」の源である。

(心のデボーション5660)

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