心のデボーション5621
「賢者の智慧はおのれの道を暁るにあり 愚なる者の痴は欺くにあり」 箴言14:8 明治元訳聖書
「さとき者の知恵は自分の道をわきまえることにあり、愚かな者の愚かは、欺くことにある。」 口語訳聖書
「貝覆い」
「徒然草171段」に「貝を覆ふ人の、我が前なるをば措きて、余所を見渡して、人の袖のかげ、膝の下まで目を配る間に、前なるをば人に覆はれぬ。よく覆ふ人は、余所までわりなく取るとは見えずして、近きばかり覆ふやうなれど、多く覆ふなり」とある。
「貝覆い」は平安末期にあった遊びで、360個の貝を数人に配り、左貝と右貝に分けたうえで、右貝を伏せて並べ、左貝を出しながら、それと対になる貝を選び、多くとった者を勝ちとした。吉田兼好は「下手は自分の前の貝よりも遠くの貝ばかりを気にする」と、自分の手元をしっかり見よというのである。遠くを得ようとして、手元を取られるようでは元も子もない。
(心のデボーション5621)
心のデボーション5622
「劍なんぢの心をも刺し貫くべし――これは多くの人の心の念の顯れん爲なり」 ルカ2:35 大正文語訳聖書
「そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。――それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」 口語訳聖書
「痛み」
エルサレムの老聖徒シメオンは幼子イエスを腕に抱き、神を賛美し、マリヤとヨセフを祝福して「あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。――それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」と預言した。(ルカ2:35) 「あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれる」は、イエスの十字架を悲しむ母マリヤの「痛みὀδύνη」をあらわす。「痛みὀδύνη」はフランス語「douleur」のように、肉体と共に心の「切り裂かれる痛み」をあらわす。「身体的な痛み」と「心の深い苦しみ」の両方を含む「痛みὀδύνη」が「人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない」と告げられる日が必ずくる。(黙示21:4)
(心のデボーション5622)
心のデボーション5623
「隣を害ふ者モーセを押退けて言ふ「誰が汝を立てて我らの司また審判人とせしぞ、」 使徒7:27 大正文語訳聖書
「すると、仲間をいじめていた者が、モーセを突き飛ばして言った、『だれが、君をわれわれの支配者や裁判人にしたのか。』」 口語訳聖書
「お根性」
「お根性」というのは「意地悪」の意味で、群馬県吾妻郡を中心に用いられ、同じ群馬県でも南東部ではあまりつかわれない。「あの人は、まーずお根性なこと!」という風に使う。お根性な人は嫌われる。
仲間を「いじめていたἀδικέω」ユダヤ人は、度の過ぎた「お根性」をしていたのだろう。自分の「お根性」を知らされると異常に怒りだし、攻撃的になる。
(心のデボーション5623)
心のデボーション5624
「家は智慧によりて建られ 明哲によりて堅くせられ」 箴言24:3 明治元訳聖書
「家は知恵によって建てられ、悟りによって堅くせられ、」 口語訳聖書
「ハタオリドリ」
アフリカに生息するハタオリドリはオスが巣を作る。完成するとメスがやって来て巣の中に入り、その出来ばえをチエックする。その間、オスは周りでさえずり続ける。巣が気に入らないとメスは次の巣に行ってしまい、オスは巣を壊して新しく作り直さなければならない。現代は、巣造りの方法のわからないオスと、巣に入りもしないでオスのさえずりについて行くメスが増えているようだ。
(心のデボーション5624)
心のデボーション5625
「斯てわれなんぢの前にわが罪をあらはしわが不義をおほはざりき 我いへらくわが愆をヱホバにいひあらはさんと 斯るときしも汝わがつみの邪曲をゆるしたまへりセラ」 詩篇32:5 明治元訳聖書
「わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。〔セラ〕 口語訳聖書
「告白」
ダビデはバテシバとの罪を「主に告白」する。(詩篇32:5) 人に対する「背きの罪」は、神への「背きの罪」であった。罪は相手に対する不義であるとともに、神に対する不義を犯すのである。人は神に許されてはじめて人に告白することができる。
(心のデボーション5625)
心のデボーション5626
「自ら欺くな、神は侮るべき者にあらず、人の播く所は、その刈る所とならん。」 ガラテヤ6:7 大正文語訳聖書
「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。」 口語訳聖書
「侮り」
「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない」。(ガラテヤ6:7) 「侮るμυκτηρίζω」ということばは「鼻」を意味する言葉から派生し、「鼻を上に向ける、鼻にしわを寄せる」から「馬鹿にする」の意味に用いられる。つまり「侮り」は顔に現れるということである。上手に隠しても、「その下の顔」に出る。神は「侮られる」お方ではない。
(心のデボーション5626)
心のデボーション5627
「而してヨシユアこれに言けるは汝らの神ヱホバの契約の櫃の前に當りて汝らヨルダンの中にすすみ入りイスラエルの人々の支派の數に循ひて各々石ひとつを取あげて肩に負きたれ」 ヨシュア4:5 明治元訳聖書
「ヨシュアは彼らに言った、「あなたがたの神、主の契約の箱の前に立って行き、ヨルダンの中に進み入り、イスラエルの人々の部族の数にしたがって、おのおの石一つを取り上げ、肩にのせて運びなさい。」 口語訳聖書
「過去を見据える」
ヨシュアはヨルダンの川底から十二の石をとり、やがてヨルダン渡渉を知らない世代に神がなされたことへのあかしとする。ユダヤ人は、過去は「前に置かれたもの」で、未来は「後に続くもの」ととらえる。過去をいつも自分の前において見据え、それに続くものが未来である。人は過去の意味を失う時、未来が見えなくなる。自分の過去にさほどの意味を感じないのは、自分の存在の大切さにまだ気づいていないからだと思う。
(心のデボーション5627)
心のデボーション5628
「傳道者は務めて佳美き言詞を求めたり その書しるしたる者は正直して眞實の言語なり」 伝道12:10 明治元訳聖書
「伝道者は麗しい言葉を得ようとつとめた。また彼は真実の言葉を正しく書きしるした。」 口語訳聖書
「上梓」
書物を出版することを「上梓」という。(「上木」とも言う) 出版の為に原稿を「版木に彫る」の意味で、「梓(あずさ)」の木を版木に用いたところからきている。言葉を残すという行為は「版木におこす」ことであった。過ちがあれば、版木を捨てて、彫りなおさなければならなかった。言葉は推敲をつくさねば残すことはできない。
(心のデボーション5628)
心のデボーション5629
「なんぢら己がために財寶を地に積むな、ここは蟲と錆とが損ひ、盜人うがちて盜むなり」 マタイ6:19 大正文語訳聖書
「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。」 口語訳聖書
「貯える」
「富」を得た者は、とりあえず「貯え」る。そして、次第に「貯える」ことが目的となる。『十二使徒の教え』(『ディダケー(教え)Διδαχή 第1章』に「必要がないのに得る者はなぜ何のために得たのかについて裁きを受けるであろう」とある。そして「あなたの施しは誰に与えたらよいかわかるまで、両手のうちに温存すべきである」とも教えられる。「必要がないのに得た富」は大急ぎで施さなければと思うべきではない。無目的に与えられる「富」など一つもない。それをどう使うか「わかる」まで、「両手のうちて温存すべき」(「温存」はギリシャ語 ἱδρόω「汗をかかせる」こと)である。「富」に熱を伝える(汗をかかせる)なら「目的」はおのずと現れる。「富」は金銭とは限らず、才能や資質という「富」もある。
(心のデボーション5629)
心のデボーション5630
「我が誡命をまもりで生命をえよ 我法を守ること汝の眸子を守るが如くせよ」 箴言7:2 明治元訳聖書
「わたしの戒めを守って命を得よ、わたしの教を守ること、ひとみを守るようにせよ。」 口語訳聖書
「上乗」
「上乗」は4頭立ての馬車を意味することばであるが、仏教では「最上の乗り物」すなわち「教え」を指し、すべての迷いを去って、真理を悟ることの意味に用いられる。だが、4頭の馬が暴れ馬であれば安心はできないとは杞憂か? 暴れ馬の4頭立ての馬車に乗ってしまった不幸というのもあるような気がする。馬が4頭そろったからといって「上乗」ではあるまい。馬車に乗るなら、車も馬も調べよ。
(心のデボーション5630)
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