心のデボーション5601
「今よりのち誰も我を煩はすな、我はイエスの印を身に佩びたるなり」ガラテヤ6:17 大正文語訳聖書
「だれも今後は、わたしに煩いをかけないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのだから。」 口語訳聖書
「イエスの焼き印」
異邦人が救われるには割礼を受けてユダヤ人のようにならねばならないとする「異なる福音」について書き送ったパウロは、「だれも今後は、わたしに煩いをかけないでほしい」と願い、自分は割礼よりも「イエスの焼き印を身に帯びているのだ」と証しする。(ガラテヤ6:17) 「キリストの焼き印στίγμα」は「いれずみ、焼き印」の意味で、ここでは、パウロが福音の宣教によって身に受けた「数々の傷」をさしている。誇る者は宗教的儀式の経験よりも、キリストの十字架を負い、キリストと共に歩む者とされたことを誇るべきである。「焼き印στίγμα」は奴隷が主人の所有であることを証しとして身に受けた印である。
(心のデボーション5601)
心のデボーション5602
「(神いひ給ふ 『われ惠の時に汝に聽き、 救の日に汝を助けたり』 と。視よ、今は惠のとき、視よ、今は救の日なり)」 Ⅱコリント6:2 大正文語訳聖書
「神はこう言われる、/「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。」 口語訳聖書
「今は恵みの時」
人生は常に望むような日がめぐってくるものではない。そこで伝道者は「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ」と語る。順境であれ逆境であれ、「その日」に愛をこめ、丁寧に生きたい。そうすれば「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」と知ることができる。「今」から逃げていると、恵みにも救いにもあずかることができない。
(心のデボーション5602)
心のデボーション5603
「互に虚言をいふな、汝らは既に舊き人とその行爲とを脱ぎて、」 コロサイ3:9 大正文語訳聖書
「互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、」 口語訳聖書
「嘘」
「互にうそを言ってはならない」。(コロサイ3:9) 「うそを言うψεύδομαι」は「欺く、だます」の意味で、いかに巧みについても、結局は人を失望させ、期待を裏切り、相手を傷つけることになる。たとえ相手をだますことはできても、自分をだますことはできない。
(心のデボーション5603)
心のデボーション5604
「ヱホバ、マムレの橡林にてアブラハムに顯現たまへり彼は日の熱き時刻天幕の入口に坐しゐたりしが」 創世記18:1 明治元訳聖書
「主はマムレのテレビンの木のかたわらでアブラハムに現れられた。それは昼の暑いころで、彼は天幕の入口にすわっていたが、」 口語訳聖書
「日常の深み」
人は日常の中で神と出会う。九十九歳のアブラハムが、地平線がかげろうのように揺らぐ暑い日ざしの中で、天幕から「走り出て」「地に伏して」礼をし、懸命に旅人をもてなしている。それがアブラハムと神との出会いであった。信仰の人の生活は毎日が真剣である。生きることに真剣な人は、老いの「衰え」も感じられない。今、自分の生きているところで、どのくらい美しく出会えるか、それがその人の日常の深さである。
(心のデボーション5604)
心のデボーション5605
「イエス寂しき處に退きて祈り給ふ」 ルカ5:16 大正文語訳聖書
「しかしイエスは、寂しい所に退いて祈っておられた。」 口語訳聖書
「寂しい所」
「イエスは、寂しい所に退いて祈っておられた」。(ルカ5:16) 「寂しい所ἔρημος」は「人の棲まない荒地」であり、このことばには「孤独」の意味がある。人生を深化させるのは「孤独の豊かさ」である。人は群れから離れ、ひとり荒野にむかい、そこで魂は神に聴く。深い孤独から偉大な働きがはじまる。
(心のデボーション5605)
心のデボーション5606
「互に虚言をいふな、汝らは既に舊き人とその行爲とを脱ぎて、」 コロサイ3:9 大正文語訳聖書
「互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、」 口語訳聖書
「告白」
相手に「それは偽りだった」と真実を告げる前に、その真実を相手と互いに直面していけるかを自分に問うてみる必要がある。不用意に語られる「真実」は激しい怒りを引き起こすからである。「偽り」の告白は、まず、神に対してなされるべきである。相手がまだ、真実に直面する力に欠けているなら、力が満ちるときまで待たねばならない。その「時」は神が教えてくださる。
(心のデボーション5606)
心のデボーション5607
「汝の父母を樂しませ 汝を生る者を喜ばせよ」 箴言23:25 大正文語訳聖書
「あなたの父母を楽しませ、あなたを産んだ母を喜ばせよ。」 口語訳聖書
「小さな放火魔」
妻の婦人雑誌にこんな文章を見つけた。「先日、二歳半の娘が、元気いっぱい、こう歌っていました。夕焼け小焼けで、ひをつけて…」(「暮らしの手帳」より) 小さな放火魔さん、あなたの歌声が私の心に灯をつける。あなたの良い親になるために私はどうしたらいいのだろうか。そう尋ねても、あなたは教えてくれず、ただ、楽しそうに歌うだけ。それだけでいい。
(心のデボーション5607)
心のデボーション5608
「主いひ給ふ『往け、この人は異邦人・王たち・イスラエルの子孫のまへに、我が名を持ちゆく我が選の器なり。』」 使徒9:15 大正文語訳聖書
「しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。」 口語訳聖書
「神の名を伝える器」
「わたしの名を伝える器」を大正文語訳聖書は「我が名を持ちゆく我が選の器」と訳す。「伝えるβαστάζω」は「かかえる、担ぐ、担う、負う、背負う、抱く」の意味があり、主は私たちに「さあ、神の名を「かかえて、担いで、背負って、胸に抱いて」、あらゆる人々のところに行きなさい。あなたがたは「神の名を伝える器」なのだ」と言われるのです。
(心のデボーション5608)
心のデボーション5609
「是断食する者と人に見えずして、隠れたるに在す汝の父に見えん為なり、然らば隠れたるに見給ふ汝の父は汝
に報い給ふべし」 マタイ6:18 大正文語訳聖書
「それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。」 口語訳聖書
「隠れたこと」
神が「隠れて居ます」のは、「隠れたこと、秘密のこと」を、すなわち「真実」を見るためである。人は神と共に「隠れたことκρυπτός」に赴く。その「報い」は大きく豊かである。
(心のデボーション5609)
心のデボーション5610
「各人の工は顯るべし。かの日これを明かにせん、かの日は火をもつて顯れ、その火おのおのの工の如何を驗すべければなり。」 Ⅰコリント3:13 大正文語訳聖書
「それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。」 口語訳聖書
「爲事」
人にはそれぞれに「仕事」がある。漢字の「仕事」は「爲事」と書いて「しごと」と読んだ。「爲(し)」は動作、行為をあらわし、「生きる為にすべき事」を意味する。ギリシャ語「仕事ἔργον」も「労働、労役、労務」など「行為、働き」の意味である。終末の日には、それぞれの「為すべきこと」が明らかにされる。「神の宮」はイエスを土台として、すべての仕事が組み合わされて建ちあがる。必要とされない「仕事」は一つもない。(Ⅰコリント3:12-15)
(心のデボーション5610)
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