心のデボーション5581
「神は更に大なる恩惠を賜ふ。されば言ふ『神は高ぶる者を拒ぎ、へりくだる者に恩惠を與へ給ふ』と。」 ヤコブ4:6 大正文語訳聖書
「しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。」 口語訳聖書
「御託を並べる」
日本語には「御託を並べる」と言い、えらそな物言いを嫌う言葉ある。「御託」は「御託宣」の略で、神が人に憑依して語るお告げのことである。生意気な言い分をくどくど述べることを言う。「高ぶる者ὑπερήφανος」は「ὑπέρ上に+ὑπέρ見せる」から良い意味で「卓越した、素晴らしい」を意味するが、悪い意味では「高慢な、尊大な」の意味に用いられる。言い分はごもっともなのだが、どこか高慢なのだ。
(心のデボーション5581)
心のデボーション5582
「われは死たるもののごとく忘られて人のこころに置れず われはやぶれたる器もののごとくなれり」 詩篇31:12 明治元訳聖書
「わたしは死んだ者のように人の心に忘れられ、破れた器のようになりました。」 口語訳聖書
「こわれた器」
「こわれた器」はもう役に立たないと、道に捨てるしかないだろうか? 使い道のないものは価値がないだろうか? 利用できないものは忘れてもよいだろうか? イエスは「忘れられた人、破れた器」を、この世で最も尊きものを見出すかのように訪ねて旅をされている。それなのに、いつの間にか人はある人々を忘れている。「こわれた器」の尊さを忘れてしまったのである。
(心のデボーション5582)
心のデボーション5583
「多の友をまうくる人は遂にその身を亡す 但し兄弟よりもたのもしき知己もまたあり」 箴言18:24 明治元訳聖書
「世には友らしい見せかけの友がある、しかし兄弟よりもたのもしい友もある。」 口語訳聖書
「見知らむ人」
源氏物語末摘花に「いみじうなまめきて、みしらむ人にこそ見せめ」とある。たいそう上品で美しくて、ものの美しさの分かりそうな人にこそ見せたいものだ」の意味である。ものを見て、これを告げたい「みしらむ人」がいる。これを「友」というのだろう。
(心のデボーション5583)
心のデボーション5584
「涙とともに播くものは歡喜とともに穫らん」 詩篇126:5 明治元訳聖書
「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。」 口語訳聖書
「涙とともに種を蒔く」
パレスチナは肥沃であったが、耕作に向く土地は狭く、たくさんの小石が混じっていた。そこで種蒔く人は、牛にすきを引かせて土地をおこし、棒で土くれを砕かなければならなかった。土地は固く、すきを受けつけない。そのつらさに「涙を流す」ほどに耕さなければ、喜び叫ぶ実りは期待できなかった。涙を知らない人は、喜び叫びを知らない。
(心のデボーション5584)
心のデボーション5585
「また言ひ給ふ『この故に、天國のことを教へられたる凡ての學者は、新しき物と舊き物とをその倉より出す家主のごとし』」 マタイ13:52 大正文語訳聖書
「そこで、イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」 口語訳聖書
「三年不窺園」
前漢の高名な学者として知られた董仲舒(とうちゅうじょ)は、講義の際、帷を下ろして生徒に顔を見せることなく、3年間もの間庭を見ようとしなかったという。(『漢書』巻56董仲舒傳) 「学ぶμαθητεύω」は「弟子となる」の意である。師とは弟子となる心を失わない人のことである。
(心のデボーション5585)
心のデボーション5586
「われ立止なきふかき泥の中にしづめり われ深水におちいるおほみづわが上をあふれすぐ」 詩篇69:2 明治元訳聖書
「わたしは足がかりもない深い泥の中に沈みました。わたしは深い水に陥り、大水がわたしの上を流れ過ぎました。」 口語訳聖書
「深い泥」
作者は「足がかりもない深い泥の中に沈む」。(詩篇69:2) 「深い泥(泥沼)יָוֵן」は踏み込めば抜けることのできない、まったく足がかりのない深い泥である。ここでは「死の沼」を意味し、人は全くの無力である。しかし、作者は深い泥の中から、「あなたのまことの救により、わたしを泥の中に沈まぬよう助け出してください」と祈り、ついに「歌をもって神の名をほめたたえ、感謝をもって神をあがめる」。(詩篇69:14,30) そして、神は「主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、わたしの足を岩の上におき、わたしの歩みをたしかにされる」。(詩篇40:2)
(心のデボーション5586)
心のデボーション5587
「兄弟よ、もし人の罪を認むることあらば、御靈に感じたる者、柔和なる心をもて之を正すべし、且おのおの自ら省みよ、恐らくは己も誘はるる事あらん」 ガラテヤ6:1 大正文語訳聖書
「兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。」 口語訳聖書
「人を正す」
人が知らずして横道にそれていくのを傍観しているわけにはいかない。「正してκαταρτίζω」は「壊れたものを繕って」という意味である。医学用語としては折れた骨を接ぐことで、二つに折れたものを一つに結びつけ、あるべき本来の姿にすることに用いられる。あるべき姿が何かということは「自分の行ないをよく調べる」ことなしにわかることではない。自分のあるべき姿を回復することに取り組むことが人を正すことになるようだ。
(心のデボーション5587)
心のデボーション5588
「斯く信仰は聞くにより、聞くはキリストの言による。」 ロマ10:17 大正文語訳聖書
「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」 口語訳聖書
「聞くこと」
「信仰は聞くことによるのであり」、「聞くことはキリストの言葉から来る」。(ロマ10:17) 「キリストの言葉」は「ῥῆμα」で「語られる言葉」であり、「出来事、事実」を意味する。信仰とは主イエスの「出来事、事実」に聞くことからくる。
(心のデボーション5588)
心のデボーション5589
「是断食する者と人に見えずして、隠れたるに在す汝の父に見えん為なり、然らば隠れたるに見給ふ汝の父は汝に報い給ふべし」 マタイ6:18 大正文語訳聖書
「それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。」 口語訳聖書
「祈り」
断食を隠すのは「祈り」を隠すためである。「祈り」を隠すのは、神に「私」と「祈り」を隠さないためである。
祈りの部屋で私は孤独ではない。そこは豊かな交わりの場である。
(心のデボーション5589)
心のデボーション5590
「愚者は出て途を行にあたりてその心たらず自己の愚なることを一切の人に告ぐ」 伝道10:3 明治元訳聖書
「愚者は道を行く時、思慮が足りない、自分の愚かなことをすべての人に告げる。」 口語訳聖書
「生意気」
二葉亭四迷の「浮雲」に「あいつ近頃生意気になっていかん」という一文がある。「生意気」は「生(ちゅいうと半端)+意気(気立て)」で「意気(粋)が中途半端」で、「みっともないしったかぶり」である。若者の「生意気」は許されようが、老人の「生意気」は救い難い。
(心のデボーション5590)
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