心のデボーション557

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心のデボーション5561

「又なにゆゑ衣のことを思ひ煩ふや。野の百合は如何にして育つかを思へ、勞せず、紡がざるなり。」 マタイ6:28  大正文語訳聖書

「また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。」 口語訳聖書

 「野の花」

「野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい」。(マタイ6:28) タンポポにはタンポポの、捩花には捩花の、それぞれの装い(ἀμφιέζω)がある。人には「私」という装いがある。野の花は温室では育たない。野の花は野にあってこそ美しい。人にも「私」という居るべき所があり、そこにあってこそ美しい。

(心のデボーション5561)

心のデボーション5562

「旅人の接待を忘るな、或人これに由り、知らずして御使を舍したり。」 へブル13:2  大正文語訳聖書

「旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした」 口語訳聖書

 「結婚の条件」

昔、あるところに、決して腹をたてて妻を殴ったりしないということを唯一の条件に結婚したカップルがいた。二人は、それは幸せで楽しい毎日を過ごした。ある日、馬があまり暴れるので夫は怒って手綱を投げつけると、それが、たまたま妻に当たってしまい、妻はたちまち姿を消してしまったというお話である。結婚するとき、決して怒らないと誓うのが間違いではなく、ただ、すべてのルールは少しづつ変えるのがよい。

(心のデボーション5562)

心のデボーション5563

「義しき道には生命ありその道すぢには死なし」 箴言12:28  明治元訳聖書

「正義の道には命がある、しかし誤りの道は死に至る。」 口語訳聖書

 「最初の一歩」

発達心理学や教育学の心理学者ヴィゴツキー(Lev Vygotsky)は、「最初の一歩を進めるとき、われわれは多くの、大きな誤りを避けることはできないだろうということをよく知っている。しかし、正しい方向に最初の一歩を進めることが大切である」と言った。人は試行錯誤することで、過ちを修正し、より深い理解に進む。完全な準備が整うのを待つよりも、「最初の一歩」を踏み出すことだ。しかし、「最初の一歩」の方向を誤ると修正が難しくなる。「間違いを恐れずに一歩踏み出し、進みながら学ぶ」ことだ。

(心のデボーション5563)

心のデボーション5564

「老人を譴責すな、反つて之を父のごとく勸め、若き人を兄弟の如くに、」 Ⅰテモテ5:1  大正文語訳聖書

「老人をとがめてはいけない。むしろ父親に対するように、話してあげなさい。若い男には兄弟に対するように、」 口語訳聖書

 「老いの知恵」

年寄りをしかってはいけないとパウロは警告する。「しかるἐπιπλήσσω」と訳されたのは「上から、打つ」ということばである。老いた人をとがめ立てするのは、「上から打つ」ことなのだ。人からなじられることほど老いの身にこたえることはない。老いた人のわがままを尊ぶことだ。その「わがまま」の奥には人への優しさも含まれている。老いの知恵なのである。

(心のデボーション5564)

心のデボーション5565

「我を強くし給ふ者によりて、凡ての事をなし得るなり。」 ピリピ4:13  大正文語訳聖書

「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」 口語訳聖書

 「強者」

「弱者とは、真理を認めはするが、自分の利害がそれに合致するかぎりにおいてのみ、それを支持する人々のことである。そうでないときには彼らは真理を放棄する」。(パスカル「パンセ」583前田陽一・由木康訳 中央公論社1973) ということは、「強者」とは自分の利害に反することでも「真理」を支持する人のことである。彼らはそれによって弱者の位置に置かれることも恐れない。

(心のデボーション5565)

心のデボーション5566

「斯て汝の耳を智慧に傾け汝の心をさとりにむけ、汝ヱホバを畏るることを暁り 神を知ることを得べし」 箴言2:2,5  明治元訳聖書

「あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を英知に向けるなら、そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。」 新改訳聖書

 「生知」

「主を畏れることは、知恵の初め。知恵は信仰のある者とともに母の胎内で造られた。」(旧約聖書外典ベン=シラの知1:1 フランシスコ会訳)「論語」季氏篇は道を知る過程に「生知」(学ぶことなく自然に道理を理解する能力)「学知」(学習と努力を通じて道理を理解する)、「困知」(困難や苦悩から学ぶ)の「三知」を教えた。そのうち「生知」は学ぶことも、努力することもなく道を悟る者で、めったにはいないという。聖書はすべての人間は母の胎内で「主を畏れる知恵」を持つ者として造られたと教える。この知恵は罪によって歪められるが、神を求めて止まない。「生知」のみで神を知る者はいない。しかし、「生知」に促されてこそ、「学知」、「因知」の道を進むのではないか。

(心のデボーション5566)

心のデボーション5567

「人の子よ我頓死をもて汝の目の喜ぶ者を取去ん汝哀かず泣ず涙をながすべからず」 エゼキエル24:16  明治元訳聖書

「人の子よ、見よ、わたしは、にわかにあなたの目の喜ぶ者を取り去る。嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。」 口語訳聖書

 「手離す」

神が私から「一打ちで」愛する者を取り去られるとき、その意味を考えるために静まる必要がある。悲しみをともなわない喪失はない。意味がわかったからといって、その悲しみが消えるわけでもない。悲しみを正しく記憶するために、意味を深める必要がある。あなたがあなたとなるために、どうしてもそれを手離す必要があったのかもしれない。神の御手に返されたのである。

(心のデボーション5567)

心のデボーション5568

「ああ神の智慧と知識との富は深いかな、その審判は測り難く、その途は尋ね難し。」 ロマ11:33  大正文語訳聖書

「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。」 口語訳聖書

 「AI」

「われわれはあまりに他人の腕に頼りすぎて自分の力時代がを駄目にしている…。私はこんなに人を当てにする乞食みたいな能力は大嫌いだ」。(モンテーニュ「エセー」原二郎訳 筑摩書房昭和43年) AIの発展は人類に「知的乞食」を大量に造り出すのではないだろうか? 知的衝撃に備える時代に入ったようだ。

(心のデボーション5568)

心のデボーション5569

「なんぢは斷食するとき、頭に油をぬり、顏をあらへ」 マタイ6:17 大正文語訳聖書

「あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。」 口語訳聖書

 「泣き女」

古代ギリシャ・ローマでは、葬儀には「泣き女 プロラトレス」(ギリシャ語で θρηνητήρ 嘆く人、慟哭する人)が雇われた。エレミヤ書にも「巧みな泣き女を迎えにやり、ここに来させよ。急がせよ。我々のために嘆きの歌を歌わせよ」(エレミヤ9:16~17 新共同訳聖書)とある。泣き女たちは髪を引き抜き、顔をかきむしった。しかし、それらは巧みな「演技」である。(「演技」を意味する英語 histrionics は「芝居がかったしぐさ」でエトルリア語起源のラテン語「大げさな悲しみ」から来たものである) 

嘆くことがいけないのではない。嘆きに「演技」が加わることがないように、「頭に油をつけ、顔を洗いなさい」と言われる。

(心のデボーション5569)

心のデボーション5570

「汝らの信仰、全世界に言ひ傳へられたれば、我まづ汝ら一同の爲にイエス・キリストによりて我が神に感謝す。」 ロマ1:8  大正文語訳聖書

「まず第一に、わたしは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられていることを、イエス・キリストによって、あなたがた一同のために、わたしの神に感謝する。」 口語訳聖書

 「地に立つ教会」

世界の文化、宗教が集まる都ローマを背景に、ローマ教会は一つの大教会というよりも、多くの「家の教会」の集まりとして信仰が守られていたようである。パウロはそれを「全世界に言い伝えられる信仰」として喜ぶ。地にある教会は、それぞれの地に立つ教会として、世界に伝えられるべき信仰を持つ。

(心のデボーション5570)

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