心のデボーション556

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心のデボーション5551

「又なにゆゑ衣のことを思ひ煩ふや。野の百合は如何にして育つかを思へ、勞せず、紡がざるなり。」 マタイ6:28  大正文語訳聖書

「また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。」 口語訳聖書

 「注意して見る」

「野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい」。(マタイ6:28) 「考えてみるκαταμανθάνω」、新共同訳聖書「注意して見なさい」、永井直治訳聖書「つらつら思え」。καταμανθάνωは「κατα完全に+μανθάνω学ぶ」からなるギリシャ語である。「詳細をよく調べ、綿密に考慮し、よく学び、十全に理解すること」である。さすれば「野の花」からも、これを創造された主を知ろう。

(心のデボーション5551)

心のデボーション5552

「されど寡婦に子もしくは孫あらば、彼ら先づ己の家に孝を行ひて親に恩を報ゆることを學ぶべし。これ神の御意にかなふ事なり。」 Ⅰテモテ5:4  大正文語訳聖書

「やもめに子か孫かがある場合には、これらの者に、まず自分の家で孝養をつくし、親の恩に報いることを学ばせるべきである。それが、神のみこころにかなうことなのである。」 口語訳聖書

 「姥捨て山」

昔、ある男が息子と二人で老いた父親をかごに背負って姥捨て山に行った。山の中で、かごごと父親を置いていこうとすると、息子がかごをもって帰るといい張る。男が「そんなものいらん」というと、息子は「お父さんが年とったら、そのとき自分がかつぐのに使わなければならないから」という。それで、男は父親を捨てるのをやめて、山をおりたそうである。帰りのかごは、行くときの倍の重さが感じられたことだろう。 

(心のデボーション5552)

心のデボーション5553

「仁慈と眞實とを汝より離すことなかれ 之を汝の項にむすび これを汝の心の碑にしるせ」 箴言3:2  明治元訳聖書

「いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。」 口語訳聖書

 「いつくしみとまこと」

「捨てる」ことが必要な時もある。しかし、捨てるものに注意せよ。捨ててはならぬものを捨てると、いつかそれを拾わなければならない時がくる。この箴言は、何を捨てても、「いつくしみとまこと」は捨ててはならない、それを首に結び、心に刻めと教える。

(心のデボーション5553)

心のデボーション5554

「勤て汝の子等に敎へ家に坐する時も路を歩む時も寝る時も興る時もこれを語るべし」 申命6:7  明治元訳聖書

「努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。」 口語訳聖書

 「お母さん大嫌い」

子どもに「お母さんなんか大嫌い」といわれてもうろたえないこと。「お母さんもあなたが嫌いよ」と返すのは最悪である。子どもは大好きなお母さんであっても憎むことができる、その複雑な感情を口にしているのである。「今は嫌いかもしれないけど、もう少しすると変わると思うわ」と答えておけばよい。母親が子どもの感情をきちんと受け止め、それに耐えることができれば、子どもの心は安定する。

(心のデボーション5554)

心のデボーション5555

「アダムの生存へたる齡は都合九百三十歳なりき而して死り」 創世5:5  明治元訳聖書

「アダムの生きた年は合わせて九百三十歳であった。そして彼は死んだ。」 口語訳聖書

 「生きながらえる」

「アダムの生きた年は合わせて九百三十歳であった」、明治元訳聖書は「アダムの生存へたる齡は都合九百三十歳なりき而して死り」と訳す。「アダム生存へたる(חיה)」には「生きる、生き返る、回復する」の意。LXXζάω(生きる、生命のある(内に生命エネルギーが活動していること))。アダムはその後、「回復への道を生存へ(生きながらえ)」、その齢は「都合(すべて)九百三十歳」であった。

(心のデボーション5555)

心のデボーション5556

「この故に我らはキリストの教の初歩に止ることなく、再び死にたる行爲の悔改と神に對する信仰との基、」 へブル6:1  大正文語訳聖書

「そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、」 口語訳聖書

 「アンカー」

「ラジオ深夜便」のアナウンサーは「アンカー」と呼ばれる。「アンカーanchor」は元々「錨」を意味するが、「リレーの最終走者」の意味もあることから、「放送の最後のまとめ役」の意味でラジオの深夜便ではアナウンサーがアンカーと呼ぶ。人生のアンカーはもちろん自分である。

(心のデボーション5556)

心のデボーション5557

「かくて野のもろもろの獣にのましむ 野の驢馬もその渇をやむ」 詩篇104:11  明治元訳聖書

「野のもろもろの獣に飲ませられる。野のろばもそのかわきをいやす。」 口語訳聖書

 「野ろば」

ろばは歩みが遅く頑固で鈍感、馬にくらべるといちじるしく見劣りがする。イエスは十字架にかかられる直前、エルサレムに入城されるのに馬ではなく、ろばに乗られている。神は野ろばにも恵みの水を与え、その渇きをいやされる。目先のことに心を奪われず、自分の生き方を守り通していると、いつの間にかイエスを背にお乗せしているのに気づくかもしれない。 

(心のデボーション5557)

心のデボーション5558

「汝らは仇を愛し、善をなし、何をも求めずして貸せ、さらば、その報は大ならん。かつ至高者の子たるべし。至高者は、恩を知らぬもの惡しき者にも、仁慈あるなり。」 ルカ6:35  大正文語訳聖書

「しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。」 口語訳聖書

 「お礼をあてにしない行為」

人から贈物をもらうと、気が重くなる人もいる。「贈物」に見合う「お礼」のことを考えなければならないからである。聖書には「人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ」とあり、「何もあてにしないでἀπελπίζω」は「報いを期待しないで」の意である。この言葉には「完全に期待する」という逆の意味がある。「人に報いを期待しないで与える者」を神がお忘れになることがないので「報いを期待しないで与える」ことを「完全な期待」と呼ぶのである。

(心のデボーション5558)

心のデボーション5559

「なんぢは斷食するとき、頭に油をぬり、顏をあらへ」 マタイ6:17 大正文語訳聖書

「あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。」 口語訳聖書

 「悔い改め」

断食するときは、「頭に油を塗り」「顔を洗い」、人に知られないようにすべきである。「悔い改め」は奥まった隠れた處で、一人で行うもので、人に知らせるものではない。

「なんぢは祈るとき、己が部屋にいり、戸を閉ぢて隱れたるに在す汝の父に祈れ。さらば隱れたるに見給ふなんぢの父は報い給はん」 マタイ6:6 大正文語訳聖書

(心のデボーション5559)

心のデボーション5560

「銀の如くこれを探り 秘れたる寳の如くこれを尋ねば、汝ヱホバを畏るることを暁り 神を知ることを得べし」 箴言2:4-5  明治元訳聖書

「銀を求めるように、これを求め、かくれた宝を尋ねるように、これを尋ねるならば、あなたは、主を恐れることを悟り、神を知ることができるようになる。」 口語訳聖書

 「美食家アピキウス」

古代ローマの美食家マルクス・ガヴィウス・アピキウス(Marcus Gavius Apicius)は莫大な資産を湯水のごとくに使って美食に明け暮れし、放蕩の果てに財産が残り少なくなったと知り(それでも10億くらいあったというが…)貧乏するくらないならと毒を飲んで死んだという。行き過ぎた美食は評価できるものではない。しかし、アピキウスはただの浪費家ではなかった。彼は珍しい料理のうわさを聞くと、ためらうことなくそれがいかに遠い国であっても、直接現地を訪れ、食材と料理法を確かめ、味わずにはおかなかったのである。当時の料理法や食材の使い方を記録し、後世の料理文化に大きな影響を与えた、現存する最古のローマ料理書『デ・レ・コクイナリア(De Re Coquinaria)』の成立に、アピキウスが少なからぬ影響を与えたことは想像にかたくない。一見して奇行としか思えないことにも探求者の熱い思いがあるものだ。

(心のデボーション5560)

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