心のデボーション5531
「權能と穎悟は彼に在り 惑はさるる者も惑はす者も共に彼に屬す」 ヨブ12:16 明治元訳聖書
「力と深き知恵は彼と共にあり、/惑わされる者も惑わす者も彼のものである。」 口語訳聖書
「知恵」
「主は、すべての人々に分に応じて知恵を与え、/主を愛する者には惜しみなくそれを与えられた。〔主を愛することこそ、輝かしい知恵。主は、御自分を示すために、知恵を分け与え、/こうして彼らは主を見るようになる。〕」 (旧約聖書外典ベン=シラの知恵1:10 新共同訳聖書) 神は「御自分を示すために、知恵を分け与えられる」。「知恵」とは、神がお示しになる「御自身についての啓示」である。
(心のデボーション5531)
心のデボーション5532
「ヱホバ神瓢を備へこれをして發生てヨナの上を覆はしめたり こはヨナの首の爲に庇蔭をまうけてその憂を慰めんが爲なりき ヨナはこの瓢の木によりて甚だ喜べり」 ヨナ4:6 明治元訳聖書
「時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。」 口語訳聖書
「とうごまの陰で」
神は一本のとうごまでヨナの「不きげん」を直そうとされる。自分の思いが通らないことにヨナはいら立ち、不機嫌になっていたのである。とうごまは成長し、陰をつくり、強い日ざしからヨナを守る。しかし、一匹の虫がとうごまを噛み、とうごまは枯れてしまう。ヨナは再び不機嫌になる。思うようにいかないことは、そのまま受けることだ。思うようにいかないことの意味がわかれば不機嫌は治る。
(心のデボーション5532)
心のデボーション5533
「『父よ、御旨ならば、此の酒杯を我より取り去りたまへ、されど我が意にあらずして御意の成らんことを願ふ』」 ルカ22:42 大正文語訳聖書
「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」 口語訳聖書
「聖意」
「主よ、如何なる事の私に罹り来るとも、それが聖意であるならば、私は爾のために悦んでこれを忍びませう」。(トマス・アケンピス「基督のまねび」内村達三郎訳 昭和21/2) 「私に罹り来る如何なる事」も「聖意である」と信じるならば、意味の分からない事にも意味を信じられよう。「意味のない聖意」などないからである。意味は「悦んでこれを忍ぶ」者に伝えられる。
(心のデボーション5533)
心のデボーション5534
「なんぢ心に罪人をうらやむ勿れ ただ終日ヱホバを畏れよ」 箴言23:17 明治元訳聖書
「心に罪びとをうらやんではならない、ただ、ひねもす主を恐れよ。」 口語訳聖書
「ねたみ」
「罪人をねたんではならない」を新共同訳は「罪人らのことに心を燃やすことはない」と訳す。平然と悪を行いながら、すずしい顔をしている人のことで「心を燃やすな」という。それは一種のねたみである。悪には「たしかに終わりがある」と箴言は語る。ねたみの炎は「終日、主を恐れる」ことによって消すしかない。ねたみは「希望」の芽をつんでしまう。
(心のデボーション5534)
心のデボーション5535
「それ監督は責むべき所なく、一人の妻の夫にして、自ら制し、愼み、品行正しく、旅人を懇ろに待し、能く教へ、」 Ⅰテモテ3:2 大正文語訳聖書
「さて、監督は、非難のない人で、ひとりの妻の夫であり、自らを制し、慎み深く、礼儀正しく、旅人をもてなし、よく教えることができ、」 口語訳聖書
「礼儀」
「論語 泰伯篇」に「子曰、剛毅木訥、近仁。勇而無禮則亂、慎而無禮則葸」とあり、「勇敢であっても、度がすぎれば単なる乱暴者に過ぎず、慎重であっても礼儀がなければ単なる臆病者に過ぎない」という。礼を欠く人間関係は混乱を生み出す。では「礼」とは何か?
聖書の「礼儀正しいκόσμιος」は「慎み深い」から「整った人格」の意である。
(心のデボーション5535)
心のデボーション5536
「福音の死にたる者に宣傅へられしは、彼らが肉體にて人のごとく審かれ、靈にて神のごとく生きん爲なり。」 Ⅰペテロ4:6 大正文語訳聖書
「死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである。」 口語訳聖書
「六文銭」
仏教では、人は死ぬと7日目に三途の川を渡ることになる。三途の川には浅瀬、中流、激流の三つの異なる流れがあり、生前の行いによってどの流れれを渡るかがきまる。死者はその前に死者の着衣を剥ぎ取る奪衣婆と、奪衣婆が剥ぎ取った着衣を衣領樹の枝にかける懸衣翁に一文銭を渡さなければならず、他にも死後はいろいろ銭がいるので一文銭を6枚そろえた「六文銭」を死者に持たせることとなっている。ごく最近まで、棺に「六文銭」を描いた紙を入れる習慣があったのはそのためである。「六文銭」は真田家の家紋で、戦場でいつ死んでもよいように「死後の世界で使う貨幣」をデザインしたもの。文化の違いはあれ、死後にも困らないようにとの思いは人に共通したものか。
(心のデボーション5536)
心のデボーション5537
「なんぢ生命の道をわれに示したまはん なんぢの前には充足るよろこびあり なんぢの右にはもろもろの快樂とこしへにあり」 詩篇16:11 明治元訳聖書
「あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。」 口語訳聖書
「ゴミオタク」
ゴミとしか思えないガラクタを集めたがる人もいる。積み上げられたガラクタに、家族は迷惑顔。こういう人をゴミオタクというのだろうか。考えてみたいのは、どうしてガラクタを集めたがるかではなく、どうしてそれが楽しいかである。その答は分からない。ただ、ひとつ分かるのは楽しさから何かをはじめると、ユニークなことができるということである。
(心のデボーション5537)
心のデボーション5538
「また彼に根ざしてその上に建てられ、かつ教へられし如く信仰を堅くし、溢るるばかり感謝せよ。 」 コロサイ2:7 大正文語訳聖書
「また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。」 口語訳聖書
「梅根性と柿根性」
「梅根性と柿根性」渋という。梅は酸味が抜けないところから、しつこくて、なかなか変わらない性質で、それに対して柿は渋があってもすぐに渋が抜けて甘くなるので、変わりやすい性格をいう。梅か柿かが問題ではなく、梅は梅らしく、柿は柿らしくあればよい。
(心のデボーション5538)
心のデボーション5539
「なんぢら斷食するとき、僞善者のごとく、悲しき面容をすな。彼らは斷食することを人に顯さんとて、その顏色を害ふなり。誠に汝らに告ぐ、彼らは既にその報を得たり」 マタイ6:16 大正文語訳聖書
「また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。」 口語訳聖書
「見苦しくする」
「見苦しくするἀφανίζω」は「輝きをなくす」で「顔を曇らせる」の意味である。この場合、断食をしているのを人に知らせようとして、わざと悲しみと苦しみの表情をすることで、滑稽極まりない。彼は自分自身を「見苦しくἀφανίζω(台なしに)」している。
(心のデボーション5539)
心のデボーション5540
「斯くのごとく舌もまた小きものなれど、その誇るところ大なり。視よ、いかに小き火の、いかに大なる林を燃すかを。」 ヤコブ3:5 大正文語訳聖書
「それと同じく、舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。」 口語訳聖書
「舌三寸に胸三寸」
「舌三寸に胸三寸」という。「舌三寸」は「ちょっとしたこと」、「胸三寸」は「胸の中」で、「ちょっとした事柄」が決定的な役割をはたすことがあり、「ちょっとしたことに注しなければならない」の意。「舌を制すること」は「心を制する」ことである。
(心のデボーション5540)
コメント