心のデボーション550

デボーション1
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心のデボーション5491

「ここにイエス、パンを取りて謝し、坐したる人々に分ちあたへ、また肴をも然なして、その欲するほど與へ給ふ。」 ヨハネ6:11  大正文語訳聖書

「そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。」 口語訳聖書

 「栄耀に餅の皮を剥く」

「栄耀に餅の皮を剥く」という。贅沢に過ぎると、餡餅の皮を剥いて餡だけ食べるようになるとの意味。餡餅は皮と一緒にたべてこそ美味しいものだが…。贅沢にすぎると味覚も変わるということか? ちなみに筆者は食パンは耳のほうが好きである。贅沢云々からではなく、単に好みの問題である。

(心のデボーション5491)

心のデボーション5492

「かつ彼等をして若き女に夫を愛し、子を愛し、」 テトス2:4  大正文語訳聖書

「そうすれば、彼女たちは、若い女たちに、夫を愛し、子供を愛し、」 口語訳聖書

 「寿司十人前」

夜中に、「今すぐ寿司を十人前買ってこい」と母親に強要する子どもがいる。むちゃくちゃなことを要求し、それに応えなければ暴力をふるう。この子は、「そんなふうに食べるとお腹をこわすよ」と母親にいわれ、十人前の寿司を全部ひっくりかえす。「なぜ、お茶でも入れて、おいしいかいといってあげられなかったのだろう」とカウンセラーは語る。子どもがむちゃくちゃをいうとき、その心には深い悲しみがある。だが、そう知って、安易に「美味しいかい?」と声をかければ、次は「ピザを十人前注文しろ」と言うかもしれない。本心から「美味しいかい」といえないと、そんなおとなの心に子もの悲しみは深まるばかりである。

(心のデボーション5492)

心のデボーション5493

「この人まづ其の兄弟シモンに遇ひ『われらメシヤ(釋けばキリスト)に遇へり』と言ひて、」 ヨハネ1:41  大正文語訳聖書

「彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った」。 口語訳聖書

 「僥倖」

思いがけない幸運を「僥倖」という。「盲亀浮木」がそれで、百年に一度しか浮かび上がってこない目の見えない亀が、海面に首を出したとたんに、たまたま海を漂っていた浮木の穴に首が入るというのが「僥倖」である。人が人と逢うのは、それ以上の「僥倖」か。

(心のデボーション5493)

心のデボーション5494

「此後ダビデの子アブサロムにタマルと名くる美しき妹ありしがダビデの子アムノンこれを戀ひたり」 Ⅱサムエル13:1  明治元訳聖書

「さてダビデの子アブサロムには名をタマルという美しい妹があったが、その後ダビデの子アムノンはこれを恋した。」 口語訳聖書

 「すごい美人」

何といっても美人の方がだんぜん有利とお考えだろうか? ある日、すごい美人がカウンセラーを訪ねた。何か悩みがありそうだが、なかなか問題の核心がみえない。そこでカウンセラーが「あなた、自分がそんなにきれいでこまっているんじゃないか」というと、「実は、そうなんです」と答えたそうである。美しさはそれを受け入れるだけの力を必要とする。タマルだけでなくアムノンも、その力を欠いていたのではないか。

(心のデボーション5494)

心のデボーション5495

「その罪を隱すものは榮ゆることなし 然ど認らはして之を離るる者は憐憫をうけん」 箴言28:13  明治元訳聖書

「その罪を隠す者は栄えることがない、言い表わしてこれを離れる者は、あわれみをうける。」 口語訳聖書

 「罪の告白」

神への「背きの罪」は神に「言い表し」、「これを離れる者」は、罪をゆるされ、神の「あわれみをうける」。(箴言28:13) この告白は、人と神のみの間におこなわれる最も厳粛な礼拝である。人は何人といえども、そこに介入することはできない。

(心のデボーション5495)

心のデボーション5496

「然れど聖靈なんぢらの上に臨むとき、汝ら能力をうけん、而してエルサレム、ユダヤ全國、サマリヤ、及び地の極にまで我が證人とならん」 使徒1:8  大正文語訳聖書

「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」 口語訳聖書

 「聖霊がのぞむとき」

「聖霊があなたがたにくだる時ἐπελθόντος τοῦ ἁγίου πνεύματος ἐφ᾽ ὑμᾶς」。(使徒1:8) 「くだるときἐπέρχομαι」は「ἐπί上から+ἔρχομαι来る(G2064)」からなり、「(こちらへ)やってくる、近寄る、臨む、到着する」の意。「聖霊」は、ヤコブがベテルの荒野で一夜を明かした時のように、あなたに「のぼりくだり」する。(創世28:11-19)そこには霊的異象も恍惚もなく、ただ静かな神の臨在がある。

(心のデボーション5496)

心のデボーション5497

「なんぢら斷食するとき、僞善者のごとく、悲しき面容をすな。彼らは斷食することを人に顯さんとて、その顏色を害ふなり。誠に汝らに告ぐ、彼らは既にその報を得たり」 マタイ6:16 大正文語訳聖書

「また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。」 口語訳聖書

 「仏頂面」

信仰者に、これみよがしな「仏頂面σκυθρωπός」を見ることがある。深刻そうな「気難しさ」が身についているのである。それは偽善者の演技なのか、それとも信仰の気恥ずかしさを隠すポーズなのか。キリスト臭い人である。

(心のデボーション5497)

心のデボーション5498

「人もし賤しきものを離れて自己を潔よくせば貴きに用ひらるる器となり、淨められて主の用に適ひ、凡ての善き業に備へらるべし。」 Ⅱテモテ2:21  大正文語訳聖書

「もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。」 口語訳聖書

 「五穀潰し」

近松門左衛門の浄瑠璃「烏帽子折」に「五こくつぶしの娑婆ふさげ、すゑを大事に思はずはをのれと爰で死ぬべきにに」とある。「五こくつぶし」は「五穀潰し」で、「穀潰し」のこと。自分の役目や責任を果たせていないと自覚する武士が、子孫や家名を守ることができずに「生き恥」をさらすくらいなら命を絶つほうがよいとの潔い覚悟をうたったもの。現代の「五穀潰し」とは少し事情が違う。

(心のデボーション5498)

心のデボーション5499

「なんぢら斷食するとき、僞善者のごとく、悲しき面容をすな。彼らは斷食することを人に顯さんとて、その顏色を害ふなり。誠に汝らに告ぐ、彼らは既にその報を得たり」 マタイ6:16 大正文語訳聖書

「また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。」 口語訳聖書

 「顔つき」

生まれながらに「むっつりした顔つき」というのはない。それは、後に作られたものである。それでも、どこか寂しげな「顔つき」の人もいる。その人が「寂しい人」であるとは限らない。「顔つき」からわかることは意外と少ない。顔つきだけで人を見ないことだ。

(心のデボーション5499)

心のデボーション5500

「汝らはキリストに在りて、諸般のこと即ち凡ての言と凡ての悟とに富みたればなり。」 Ⅰコリント1:5  大正文語訳聖書

「あなたがたはキリストにあって、すべてのことに、すなわち、すべての言葉にもすべての知識にも恵まれ、」 口語訳聖書

 「ことばと知識」

本節を新改訳聖書は「というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです」と訳す。「ことばと知識の豊かさ」は「いのちのことば」である主イエスから来る。(ヨハネ1:1-5)

(心のデボーション5500)

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