心のデボーション5481
「望みて喜び、患難にたへ、祈を恆にし、」 ロマ12:12 大正文語訳聖書
「みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。」 口語訳聖書
「苦しむ術」
ツルゲーネフIvan Turgenevは「幸せならんと願うなら、まず学べ、苦しむ術を」と言う。「苦しむ術」とは、苦しみの意味と目的を知って、苦しみを受容し、苦しみの意味を変える術のことである。「新しい道は常に苦痛を伴うが、それは成長の代償である」。(ツルゲーネフ)
(心のデボーション5481)
心のデボーション5482
「イツサカルの子孫たる者の中より善く時勢に通じイスラエルの爲べきことを知る者きたれりその首二百人ありその兄弟等は皆これが指揮にしたがへり」 Ⅰ歴代12:32 明治元訳聖書
「イッサカルの子孫からはよく時勢に通じ、イスラエルのなすべきことをわきまえた人々が来た。その長たる者が二百人あって、その兄弟たちは皆その指揮に従った。」 口語訳聖書
「勇者の条件」
イッサカル族のかしら二百人は「時を悟り」「何をなすべきかを知る」人々だった。ダビデにとって、この二百人こそが最も頼りがいのある勇士であった。剣をもって勇ましく戦う勇気がなくても、「時を悟り」「何をなすべきかを知る」ことが勇者の条件である。しかし、時を悟っても何をなすべきかがわからなく、何をなすべきかを知っても時が悟れないことばかりだ。勇者への道はまだまだ遠い。
(心のデボーション5482)
心のデボーション5483
「われ汝らに告ぐ、友なるによりては起ちて與へねど、求の切なるにより、起きて其の要する程のものを與へん。」 ルカ11:8 大正文語訳聖書
「しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。」 口語訳聖書
「一飯三吐哺」
「一飯三吐哺」は「食事の途中に、たとえ食事中でも、三度口の中に食べ物を戻して、客を迎える」の意。賢者に会わんとすれば何をおいても駆けつけよとの故事。思わぬ時にそれはやってくる。一口の食を呑み込む間に、去ってしまうこともある。(心のデボーション3686「握髪吐哺」)
(心のデボーション5483)
心のデボーション5484
「惡者はその惡のうちにて亡され義者はその死ぬる時にも望あり」 箴言14:32 明治元訳聖書
「悪しき者はその悪しき行いによって滅ぼされ、正しい者はその正しきによって、のがれ場を得る。」 口語訳聖書
「のがれ場」
ものごとから逃げないためには「のがれ場」を持つことです。「のがれ場」は町中よりも、遠く荒野にあります。(詩篇55:6-8)誤って罪を犯した人が追及から逃れ、神に祈る、それが「のがれ場」である。箴言14:32の「正しい者」とは「祈りの人」のことである。彼は死の床にいても、そこに「のがれ場」を見出す。目を閉じて、心を神に向ける、その時人は「のがれ場」にいる。
(心のデボーション5484)
心のデボーション5485
「そは公平の途をたもち その聖徒の途すぢを守りたまへばなり」 箴言2:8 明治元訳聖書
「公正の道を保ち、その聖徒たちの道筋を守られる。」 口語訳聖書
「聖徒」
漢字「聖」は「耳+呈(口+王)」で「呈」は「正しく知る」の意で、「天の声を正しく知る者」が「聖人(すぐれた人)」である。聖書の「聖徒」は「神の盾」に守られる「正しい人のために、確かな知恵をたくわえ、誠実に歩む者」である。神が「その公正の道を保ち、その聖徒たちの道筋を守られる」。(箴言2:7-8)
(心のデボーション5485)
心のデボーション5486
「懼るな、小き群よ、なんぢらに御國を賜ふことは、汝らの父の御意なり。」 ルカ12:32 大正文語訳聖書
「恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。」 口語訳聖書
「恐れるな、小さい群れよ」
「恐れるな、小さい群れよμὴ φοβοῦ, τὸ μικρὸν ποίμνιον,」。(ルカ12:32) 「小さな群れτὸ μικρὸν ποίμνιον」は「取小さな羊の群れ」の意。「小さなμικρός」は「(人、物、大きさ、距離、地位等の)小さい」から「少ない、すこし、わずかの、ちょっとした、取るに足りない」の意。自分が「取るに足りない者」であることを恐れるな。
あなたは神の目に特別な存在として選ばれたのである。
(心のデボーション5486)
心のデボーション5487
「門守は彼のために開き、羊はその聲をきき、彼は己の羊の名を呼びて牽きいだす。」 ヨハネ10:3 大正文語訳聖書
「門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。」 口語訳聖書
「パルニュルジュの羊」
パルニュルジュルは商人のダントウノーに侮辱され、その仕返しにダントウノーのボスの羊を買い取り海に投げこむ。すると甲板にいたダントウノーの羊は一匹残らず海に飛び込んでおぼれてしまうのである。飼う者のない羊も困るが、前の羊に従っていくだけの羊にも困る。ただ、羊には「聞き分ける能力」が備わっている。「聞き分ける能力」がしっかりしていれば海に飛び込んだりしない。
(心のデボーション5487)
心のデボーション5488
「兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。」 ロマ12:10 大正文語訳聖書
「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」 口語訳聖書
「七尺去不踏師影」
「七尺去不踏師影」という。「弟子は7尺さがって師の影を踏まず」の意。「7尺」は「おとなの身長」くらいの距離。注目すべきは「師の影」である。うがった解釈を承知でユング風にいえば、「師の影」を踏むことは危険ということか。「師の影は濃い」ことを覚えておこう。「師の影」が弟子に転移されることは、ままある。
(心のデボーション5488)
心のデボーション5489
「もし人を免さずば、汝らの父も汝らの過失を免し給はじ」 マタイ6:15 大正文語訳聖書
「もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」 口語訳聖書
「仲違い」
ある人が友人と仲違いした。二人は決別し、数年が経過した。心に重いしこりができ、何とかそれを除こうとして再会した。しかし、再会してみると、相手の心には仲違いの事実はもう存在していなかった。「過失」は赦されたのか。ただ、うやむやに葬られただけではないのか。相手の心から消えたものを蘇らすこともすべきでもない。ただ、隠れた處にゆき、神に祈るのみである。
(心のデボーション5489)
心のデボーション5490
「さらば凡て我がこれらの言をききて行ふ者を、磐の上に家をたてたる慧き人に擬へん。」 マタイ7:24 大正文語訳聖書
「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。」 口語訳聖書
「火を持ち帰る」
「われわれは他人の意見や知識をしまっておく。そして、それでおしまいである。だがそれをわれわれ自身のものにしなければならぬ」。(モンテーニュ「エセー」原二郎訳 筑摩書房昭和43年) モンテーニュは、それは「火が必要な人が隣にゆき、火に温まって、自分の家に火を持ち帰ることを忘れた人」に例える。大切なことはそこで「温まる」ことではなく、「自分の家をあたためる火」を貰って帰ることである。
(心のデボーション5490)
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