心のデボーション5441
「汝神の作爲を考ふべし 神の曲たまひし者は誰かこれを直くすることを得ん」 伝道7:13 明治元訳聖書
「神のみわざを考えみよ。神の曲げられたものを、だれがまっすぐにすることができるか。」 口語訳聖書
「全身全霊を傾けて」
「その時その人のみ通じる何かを全身全霊を傾けて考え、己を賭ける覚悟でそれをいってはじめて、道は開ける」。(柳田邦男「言葉の力、生きる力」新潮社2002/6) AIに尋ねると何でも教えてくれると、「何かを全身全霊を傾けて考える」ことがなくなりそうだが、「何かを全身全霊を傾けて考える」ためにAIを使えば、AIha4良き友となる。問題は「全身全霊を傾けて考えるべき何か」が見えなくなることだ。
(心のデボーション5441)
心のデボーション5442
「汝ら人の虚しき言に欺かるな、神の怒はこれらの事によりて不從順の子らに及ぶなり。」 エペソ5:6 大正文語訳聖書
「あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。」 口語訳聖書
「てこでも動かせない」
相手のうちにてこでも動かせない世界があると感じられるようになったら、相当、相手がわかってきた証拠である。相手の堅い部分はそれを嫌悪したり、変えようとせず、好きにさせたらいい。頑固なところを一緒に楽しめたら最高。相手を自分の思うままに変えようとしているうちは、夫婦としてはまだまだというべきか。それが愛だと信じるに至っては、危険ですらある。夫婦は相手のてこでも動かせない部分と向き合いながら、自分に向かうのであろう。
(心のデボーション5442)
心のデボーション5443
「明哲はこれを持つものに生命の泉となる 愚なる者をいましむる者はおのれの痴是なり」 箴言16:22 明治元訳聖書
「知恵はこれを持つ者に命の泉となる、しかし、愚かさは愚かな者の受ける懲らしめである。」 口語訳聖書
「魂の渇き」
「誰が、天の高さ、地の広さ、淵の深さを測り知ることができようか」。(旧約聖書外典ベン=シラの知恵1:3 フランシスコ会訳聖書)知恵を求める人は、その「高さ、広さ、深さ」に自らの貧しさを思わずにはいられない。しかし、貧しさを知ることは絶望ではない、魂の渇きを知ったのである。「天の高さ、地の広さ、淵の深さ」を知るものが、その測りがたさに感動し、その僅かでも知ることを無上の喜びとするように、知恵を慕う者は、知恵の「測りがたい高さ、広さ、深さ」と「自らのあまりの貧しさ」に「渇くことの尊厳」をすら覚えるのである。
(心のデボーション5443)
心のデボーション5444
「世は去り世は來る 地は永久に長存なり」 伝道1:4 明治元訳聖書
「世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。」 口語訳聖書
「変わらないもの」
英国人は退職後、元の職場に行って、帽子かけに他人の帽子があるのを見て、退職の悲哀を感じるそうである。自分にとっては「一つの時代」が去り「次の時代」が来るほどの変化でも、「地」はそんなことが全くなかったかのように続く。自分が去った後も、何も変わらず、存在し続ける。人のいのちは小さくて軽い。しかし、その軽いいのちで、いつまでも変わらないものに生きることもできる。
(心のデボーション5444)
心のデボーション5445
「汝らは地の鹽なり、鹽もし效力を失はば、何をもてか之に鹽すべき。後は用なし、外にすてられて人に蹈まるるのみ。」 マタイ5:13 大正文語訳聖書
「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。」 口語訳聖書
「一殺一生」
「一殺多生」はひとりの犠牲によって多くの人が生かされることだが、現代は「多殺一生」になってしまったようだ。せめて「一殺一生」くらいが実現できれば幸いというべきか?
(心のデボーション5445)
心のデボーション5446
「きたりてヱホバの事跡をみよ ヱホバはおほくの懼るべきことを地になしたまへり」 詩篇46:8 明治元訳聖書
「来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。」 口語訳聖書
「驚き」
「すべてはじめはどんなに偉大で不思議なことでも、誰しも見ているうちに次第に驚くことが少なくなる。ルクレティウス(モンテーニュ「エセー」原二郎訳 筑摩書房昭和43年) そのためにも見たことを自身の身に見続けることだ。時と共にそれは豊かさを増してゆく。
(心のデボーション5446)
心のデボーション5447
「また天より聲あり、曰く『これは我が愛しむ子、わが悦ぶ者なり』」 マタイ3:17 大正文語訳聖書
「また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」 口語訳聖書
「親、親たれ」
「子、子たらずとも、親、親たれ」という。子どもが我が子とも思えぬほどに荒れる時にも、親は親としての温かい気持ちを失ってはいけないということだろうか。しかし、現代は、「子、子たらずば、いかで、親、親たらん」という声も聞こえてくる。子たることが難しいように、親たることも、また、難しい。親も子も、互いにそのことを認めることが大切なのかもしれない。
(心のデボーション5447)
心のデボーション5448
「忍耐をして全き活動をなさしめよ。これ汝らが全くかつ備りて、缺くる所なからん爲なり。」 ヤコブ1:4 大正文語訳聖書
「だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。」 口語訳聖書
「完全な人」
「なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように」。(ヤコブ1:4) 「欠点のない」は完全無欠の意味ではない。「欠点のないλείπω」は「欠けた所のない」の意で、「取り残されたところのない」をあらわす。神が約束されたことを「何一つ取り残していない」人をさす。その人は弱さ、欠点をも「取り残さない」。
(心のデボーション5448)
心のデボーション5449
「汝等もし人の過失を免さば、汝らの天の父も汝らを免し給はん」 マタイ6:14 大正文語訳聖書
「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。」 口語訳聖書
「うっちゃっておく」
相手の「思い違い」から発生した「真理からはずれる、脱線、罪過、罪、過失、過ち、違反、曲事」を赦すなら、神は「思い違い」から発生する「真理からはずれる、脱線、罪過、罪、過失、過ち、違反、曲事」を赦してくださる。「赦すἀφίημι」には「捨てておく、うっちゃっておく」という意味もある。曲事をそのままにうっちゃっておくという「赦し方」がある。曲事はうっちゃられると、いつの間にか消えることがある。
(相撲で「うっちゃり」は土俵際に追い詰められながらも体をひねって相手を土俵の外に投げる逆転の奥の手である。「打棄」と書き「捨てる」から来た言葉。「人の過失を土俵際で打棄てる」のは逆転の妙手かもしれない。)
(心のデボーション5449)
心のデボーション5450
「讃むべきかな、我らの主イエス・キリストの父なる神、その大なる憐憫に隨ひ、イエス・キリストの死人の中より甦へり給へることに由り、我らを新に生れしめて生ける望を懷かせ、」 Ⅰペテロ1:3 大正文語訳聖書
「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、」 口語訳聖書
「新たに生まれる」
「ほむべき」は、イエス・キリスにより「わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ給う神」である。神は「朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によって」、「あなたがたを新たに生れかわらせ給う」。(Ⅰペテロ1:24)
(心のデボーション5450)
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