心のデボーション542

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心のデボーション5411

「虚偽の口を汝より棄さり 惡き口唇を汝より遠くはなせ」 箴言4:24  明治元訳聖書

「曲った言葉をあなたから捨てさり、よこしまな談話をあなたから遠ざけよ。」 口語訳聖書

 「情報」

「現代の日本人の一日分の情報量は、平安時代の人が生涯に接する情報量と同じ、江戸時代の人が一年に接する情報量と同じ」、と言われる。21世紀の今であれば、瞬時に平安時代、江戸時代を超える。しかし、人が必要とし、使える情報は限られており、その量と質はどの時代にも変わらない。圧倒的な情報の量を手に入れたとしても、それを思考するのはひとりの存在する人間である。

(心のデボーション5411)

心のデボーション5412

「これヱホバの設けたまへる日なり われらはこの日によろこびたのしまん」 詩篇118:24  明治元訳聖書

「これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。」 口語訳聖書

 「安息日の楽しみ」

「もし、金を扱うことの許されない安息日に、道で財布が落ちているのを見つけたらどうするか」とラビ・ハイムは尋ねる。弟子の一人が「もちろん、拾いません」というと、ハイム先生は「お前はばか者だ」と答えた。別の弟子が「拾います」と答えると「罪人だ、お前は」と叱りつけた。どう答えればハイム先生は気に入るのだろうか?

(心のデボーション5412)

心のデボーション5413

「此の朽つるものは朽ちぬものを著、この死ぬる者は死なぬものを著んとき『死は勝に呑まれたり』と録されたる言は成就すべし。」 Ⅰコリント15:54  大正文語訳聖書

「この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。」 口語訳聖書

 「終末時計」

2024年の「終末時計」は昨年に続き「残り90秒」と発表された。「終末時計(Doomsday Clock)」は公表された1947年には「残り7分」であったが、年々減少している。しかし、冷戦が終結した1991年には「残り17分」にまで押し戻した。「終末時計」は進むばかりでなく、戻すこともできる時計である。

(心のデボーション5413)

心のデボーション5414

「幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん。」 マタイ5:8  大正文語訳聖書

「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。」 口語訳聖書

 「心の清い人」

心の清さは、「清らかさ、高潔さ」だけを意味するものではない。詩篇では「むなしいものに魂を奪われない」ことと言われ、ヤコブは「二心のない人」と言われる。(詩篇24:4-5  ヤコブ4:8) 心の清い人とは、一つのものを、とらわれのない心で見据えることのできる人であり、それによって「神」を見る人である。

(心のデボーション5414)

心のデボーション5415

「汝の父母を敬へ是は汝の神ヱホバの汝にたまふ所の地に汝の生命の長からんためなり」 出エジプト20:12  明治元訳聖書

「あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。」 口語訳聖書

 「有難さ」

「有り難し」は「めったにないこと」の意である。「枕草子」に「ありがたきもの。舅にほめらるる婿。また、姑に思はるる嫁の君」とある。だからと言って「舅にほめらるる婿、姑に思はるる嫁」を目指そうとなどしないほうがよい。それは「めったにないこと」であるし、有難がるのは舅と姑だけということもある。「存在まれなる」を尊ぶ」よりも、ありのままの存在であるがよい。やがて舅も姑も、その有難さに気づくはずである。

(心のデボーション5415)

心のデボーション5416

「ヱホバはわが霊魂をいかし名のゆゑをもて我をただしき路にみちびき給ふ」 詩篇23:3  明治元訳聖書

「主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。」 口語訳聖書

 「魂を落とす」

竹富島では道をあるいているときに倒れたら、その場の石や土を懐に入れる風習がある。魂は落ちやすいので、石や土を懐に入れれば、魂がもとに戻ると信じられたのである。魂をどこかに落とすようなことがあっても、取り戻す方法を知っていれば安心である。「ああ、戻った」と思えれば、それだけでも意味がある。肝心なことは、魂は落としたところにあるので、失ったところに戻って、落ちている魂を拾い上げることである。

(心のデボーション5416)

心のデボーション5417

「我わが兄弟ハナニおよび城の宰ハナニヤをしてヱルサレムを治めしむ彼は忠信なる人にして衆多の者に超りて神を畏るる者なり」 ネヘミヤ7:2  明治元訳聖書

「わたしは、わたしの兄弟ハナニと、城のつかさハナニヤに命じて、エルサレムを治めさせた。彼は多くの者にまさって忠信な、神を恐れる者であったからである。」 口語訳聖書

 「まめやかな人」

人々は荒れ果てた都エルサレムに帰ってきた。そして、指導者ネヘミヤはハナヌヤを大切な警備の総指揮官に任命する。ハナヌヤが誰よりも「誠実な人」だったからである。「誠実な人」とは、心がこまやかに行きとどく人のことである。ハナヌヤの誠実さは、神へのまめやかさからくるものであった。治める人に求められるのは、神に至りつく誠実さ(εἰλικρίνεια)である。

(心のデボーション5417)

心のデボーション5418

「我なんぢの涙を憶え、わが歡喜の滿ちん爲に汝を見んことを欲す。」 Ⅱテモテ1:4  大正文語訳聖書

「わたしは、あなたの涙をおぼえており、あなたに会って喜びで満たされたいと、切に願っている。」 口語訳聖書

 「慰め」

流す涙には「慰め」がある。「慰めるπαρακαλέω」は「傍らに招く、側に呼ぶ」の意である。同じ涙を知る者が、泣く者を「傍らに招く」。παράκλητοςは「助け主」の意であり、聖霊は「παράκλητος」と呼ばれる。(ヨハネ14:16)

(心のデボーション5418)

心のデボーション5419

「汝等もし人の過失を免さば、汝らの天の父も汝らを免し給はん」 マタイ6:14 大正文語訳聖書

「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。」 口語訳聖書

 「人類の過ち」

本節の「人ἄνθρωπος」は複数形で、「人々」である。人の犯す過ちがあり、人々の犯す過ちがある。人々の犯す過ちは人の過ちの単純な集積ではない。人々の過ちは「人間の過ち、人類の過ち」である。それは私の過ちであり、しかも、多くの場合、「私」はその加害者であると同時に被害者である。「人々の過ち」は赦す対象が具体的に見えない分、それを赦すのに大きな困難と痛みを伴う。

(心のデボーション5419)

心のデボーション5420

「僞りなき神は、創世の前に、この生命を約束し給ひしが、」 テトス1:2  大正文語訳聖書

「偽りのない神が永遠の昔に約束された永遠のいのちの望みに基くのである。」 口語訳聖書

 「偽りのない神」

神は「偽りのない神ὁ ἀψευδὴς θεὸς」である。「神は人のように偽ることはなく、また人の子のように悔いることもない。言ったことで、行わないことがあろうか、語ったことで、しとげないことがあろうか」。(民数23:19) 「偽りがないἀψευδὴς」と言えるのは神にのみであり、人間は「偽り」なしに生きない者である。

(心のデボーション5420)

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