心のデボーション5391
「其の愛は強くして死のごとく 嫉妬は堅くして陰府にひとし その熖は火のほのほのごとし いともはげしき熖なり」 雅歌8:6 明治元訳聖書
「愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷だからです。そのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎です」 口語訳聖書
「一死一生知交情」
「一死一生知交情」という。「生きるか死ぬかのときにあって、はじめて人の情けがわかる」。だが、それも平常の交情あってのことであろう。「生きるか死ぬかのとき」にはすでに人の心は決まっている。
(心のデボーション5391)
心のデボーション5392
「みよ子輩はヱホバのあたへたまふ嗣業にして 胎の實はその報のたまものなり」 詩篇127:3 明治元訳聖書
「見よ、子供たちは神から賜わった嗣業であり、胎の実は報いの賜物である。」 口語訳聖書
「子どもは主の賜物」
子どもは母親を選ぶことができない。同時に、母親も子どもを選ぶことができない。互いに選ぶことのできないところで、母親は子どもと、子どもは母親と出会う。理想の子ども、理想の母親というよりも、すでに存在しているものとして、二人は出会うのである。「賜物δῶμα」とは「相続」のことで、母親は子どもを、子どもは母親を、神から「財産分け」されたのである。それも、相続税などなしに。
(心のデボーション5392)
心のデボーション5393
「また言ひ給ふ『きく耳ある者は聽くべし』」 マルコ4:9 大正文語訳聖書
「そして言われた、「聞く耳のある者は聞くがよい」」 口語訳聖書
「耳をすます」
「耳をすます」ことについて河合隼雄氏は「自分の心とからだの内部の、他の声や音を聞くことのできる静けさ」というものが必要と言う。(河合隼雄「声の力」岩波書店2002.4) 心が騒ぐと人の声が聞こえない。「聞く耳のある者」の心には「静けさ」がある。神と共にある静けさである。
(心のデボーション5393)
心のデボーション5394
「なんぢら凡ての人を敬ひ、兄弟を愛し、神を畏れ、王を尊べ。」 Ⅰペテロ2:17 大正文語訳聖書
「すべての人をうやまい、兄弟たちを愛し、神をおそれ、王を尊びなさい。」 口語訳聖書
「緊張の人」
山田洋次監督は、緊張しないような役者はダメ、あがらないような役者は全然ダメという。いい役者はものすごくあがる、そのあがっているのをいかに押さえてやるかが演出なのだそうである。この緊張は人への敬いからくる。愛に欠ける人は、人を敬うことができない。どの人にも緊張を感じ、盛大にあがれるというのは素晴しい才能である。その人はだれからも愛される。
(心のデボーション5394)
心のデボーション5395
「我は汝らの衷に善き業を始め給ひし者の、キリスト・イエスの日まで之を全うし給ふべきことを確信す。」 ピリピ1:6 大正文語訳聖書
「そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。」 口語訳聖書
「良い業」
「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神」であり、「キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さる」。(ピリピ2:13: 1:7) 神はことを行われるために「ある人の心」に「望み」を起こされ、道をひらかれ、弱い心を励まされ、ことごとくを完成される。「良き業」とは「喜ばしく、美しく、しあわせな業」である。
(心のデボーション5395)
心のデボーション5396
「神に愛せらるる兄弟よ、また汝らの選ばれたることを知るに因りてなり。」 Ⅰテサロニケ1:4 大正文語訳聖書
「神に愛されている兄弟たちよ。わたしたちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っている。」 口語訳聖書
「一視同仁」
「一視同仁」は「だれかれの区別なく、人を平等に愛する」の意で、中国では「聖人」とされる。しかし、「一視同仁の聖人」に出会うものではない。愛の世界では、すべての人を愛する人は誰も愛してはいないと言えるからである。愛は個々に成立し、どれも同じではない。
(心のデボーション5396)
心のデボーション5397
「我らに逆はぬ者は、我らに附く者なり。」 マルコ9:40 大正文語訳聖書
「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。」 口語訳聖書
「少し離れて立つ人」
反対はしないが賛成もしないというのは、頼るに危ない。しかし、イエス・キリストは、こういう人も「味方」なのだといわれる。少し離れて立つ人々の中にも、意外に親しい「味方」がいる。頼ることができなくても大切な人なのだ。その距離を無理に埋めようと思わないこと。そのあり方も深い意味があるように思えるからである。
(心のデボーション5397)
心のデボーション5398
「かく聖徒を愛するは、汝らの爲に天に蓄へあるものを望むに因る。この望のことは汝らに及べる福音の眞の言によりて汝らが曾て聞きし所なり」 コロサイ1:5 大正文語訳聖書
「この愛は、あなたがたのために天にたくわえられている望みに基くものであり、その望みについては、あなたがたはすでに、あなたがたのところまで伝えられた福音の真理の言葉によって聞いている。」 口語訳聖書
「望みから移り行くな」
あなたがたは「あなたがたのために天にたくわえられている望み」について「伝えられた福音の真理の言葉によって聞いた」。(コロサイ1:5) 「しっかりと信仰にふみとどまり、すでに聞いている福音の望みから移り行くことのないようにすべきである」。(コロサイ1:23) 「移り行くμετανοέω」は「考えを変える、考え直す、目的を変える、心を変える、思いを変える」の意である神に向けて「心を変えμετανοέω」、その後、再び「心を変えてμετανοέω」望みを失ってはならない。
(心のデボーション5398)
心のデボーション5399
「我らを嘗試(こころみ)に遭わせず、悪より救い出したまえ」 マタイ6:13 大正文語訳聖書
「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。」 口語訳聖書
「嘗試(こころみ)」
「嘗試(こころみ)」の「嘗」は「旨 うまい」からなる言葉で、口で味わうことから「試す」の意味になる。神はわれらを「口」に含み、味わい給うか。その味は如何なものなるや。
(心のデボーション5399)
心のデボーション5400
「如此わが口よりいづる言もむなしくは我にかへらず わが喜ぶところを成し わが命じ遣りし事をはたさん」 イザヤ55:11 明治元訳聖書
「このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。」 口語訳聖書
「御言葉」
神の「口から出た言葉」は「むなしくわたしに〔神に〕帰らない」、必ず神の「喜ぶところのことをなし」、神が「命じ送った事を果す」。(イザヤ55:11) 栄光は神のものである。
(心のデボーション5400)
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