心のデボーション5381
「キリスト・イエスの僕、召されて使徒となり、神の福音のために選び別たれたるパウロ――」 ロマ1:1 大正文語訳聖書
「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから――」 口語訳聖書
「召されて使徒となったパウロ」
パウロはロマ書の冒頭に自身の名を置く。自身の身に起こりし事をもって、神のことばを解き明かす。
パウロは「σαῦλοςサウロ(「ヤㇵウェに求める」を意味するユダヤ的名称でユダヤの初代王サウロと同名)という名であったが、召されて後、σαῦλοςのギリシャ・ローマ的名称である「παῦλοςパウロ」を好んで用いるようになった。(使徒9:1-20; 13:9)異邦人背教への召しにしたがって、ユダヤ的呼称サウロから、異邦人世界に通じるパウロを用いたのであろう。神の召しにしたがうパウロの思いが伝わる。
(心のデボーション5381)
心のデボーション5382
「外の人にも令聞ある者たるべし、然らずば誹謗と惡魔の羂とに陷らん。」 Ⅰテモテ3:7 大正文語訳聖書
「さらにまた、教会外の人々にもよく思われている人でなければならない。そうでないと、そしりを受け、悪魔のわなにかかるであろう。」 口語訳聖書
「悪魔のわな」
「悪魔διάβολος」という呼び名は「分ける」ということばからきている。相手をじろじろ見て、ばらばらに分け、中傷し、告げ口をする。「正しい中傷」とか「公平な告げ口」というものはない。中傷や告げ口はすべて、片寄った考えからはじまる。「悪魔のわな」に陥らないためには、ものごとを「じろじろ見て」「ぶつぶついう」のを止めることだ。「わな」はその辺にしかけられています。
(心のデボーション5382)
心のデボーション5383
「汝らは世の光なり。山の上にある町は隱るることなし。」 マタイ5:14 大正文語訳聖書
「あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。」 口語訳聖書
「一蓋灯」
茶道では茶室や茶庭に「一蓋灯」がおかれる。「一蓋灯」は蓋が一枚の簡素な灯篭で、薄暗い仄かな灯が、むしろ周囲を奥深く照らす。イエスの言われる「世の光」は「一蓋灯」の仄かな灯りではあるまいか。
(心のデボーション5383)
心のデボーション5384
「かくてダビデその子ソロモンに言けるは汝心を強くし勇みてこれを爲せ懼るる勿れ慄くなかれヱホバ神我神汝とともに在さん彼かならず汝を離れず汝を棄ず汝をしてヱホバの家の奉事の諸の工を成終しめたまふべし」 Ⅰ歴代28:20
「ダビデはその子ソロモンに言った、「あなたは心を強くし、勇んでこれを行いなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。主なる神、わたしの神があなたとともにおられるからである。主はあなたを離れず、あなたを捨てず、ついに主の宮の務のすべての工事をなし終えさせられるでしょう。」 口語訳聖書
「成し遂げる」
次々と人生の目標を成し遂げていく人はすばらしい。しかし、人生でもっとも困難で、しかも実り多いのは、成し遂げ得ないものを自覚し、それと折り合うことではないか。希望を捨てたり、何もできないとあきらめるのでなく、現実と和解する。そうすれば、現実の中に自分との新しい関係が見つかる。失われていくものにしがみつかない「強さ」「雄々しさ」がないと、自分を成し遂げることはできない。
(心のデボーション5384)
心のデボーション5385
「書をコリントに在る神の教會、即ちいづれの處にありても、我らの主、ただに我等のみならず彼らの主なるイエス・キリストの名を呼び求むる者とともに、聖徒となるべき召を蒙り、キリスト・イエスに在りて潔められたる汝らに贈る」 Ⅰコリント1:2 大正文語訳聖書
「コリントにある神の教会、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々と共に、キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ。このキリストは、わたしたちの主であり、また彼らの主であられる」 口語訳聖書
「至る所で」
「至る所でἐν παντὶ τόπῳ」、「所τόπος」は「場所、機会、地位」などを示す。キリスト者は「いたる所、いかなる機会、あらゆる地位」においても、主の御名を呼び求める。
(心のデボーション5385)
心のデボーション5386
「われらを凡ての患難のうちに慰め、我等をして自ら神に慰めらるる慰安をもて、諸般の患難に居る者を慰むることを得しめ給ふ」 Ⅱコリント1:4 大正文語訳聖書
「神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである」 口語訳聖書
「慰め」
神の慰めを受けた者は、人を慰めることができる。人を慰めることができないと感じる人は、慰められた経験が浅いからであろう。慰められることしか求めない人は、慰めの一部しか知らない。小さな慰めを知った人は、「あらゆる艱難のなかにいる人」を慰め得る。「慰めπαρακαλέω」とは「傍に呼ぶ」の意で、神の「傍に呼ばれた人」は、人を「傍に呼ぶ」のである。
(心のデボーション5386)
心のデボーション5387
「謙だるものを正義にみちびきたまはん その道をへりくだる者にしめしたまはん」 詩篇25:9 明治元訳聖書
「へりくだる者を公義に導き、へりくだる者にその道を教えられる。」 口語訳聖書
「貧しき者」
「貧しき者」とは「へりくだる者」のことである。むき出しの貧しさではなく、一輪の花にも神のみ手を感じる豊かさがある。つましさを自分でほどよく選ぶゆとりもある。現代は貧しさを克服したのではなく、貧しさが病んでいるのかもしれない。それで、豊かさの中で、幸いへの道を見失っているのかもしれない。人は貧しさによっても高ぶり、幸いへの道を閉ざす。
(心のデボーション5387)
心のデボーション5388
「願はくは榮光、世々限りなく神にあらん事を、アァメン。」 ガラテヤ1:5 大正文語訳聖書
「栄光が世々限りなく神にあるように、アァメン。」 口語訳聖書
「世々限りなく」
「世々限りなくεἰς τοὺς αἰῶνας τῶν αἰώνων」。永井直治訳聖書は「世々の世々に至るまで榮光彼に〔あれ〕」と訳す。一つの時代が終わり、次の時代が生まれる。時代にいかなる変化がおころうとも、「世々の世々に至るまで、栄光が神にありますように。
(心のデボーション5388)
心のデボーション5389
「我らを嘗試(こころみ)に遭わせず、悪より救い出したまえ」 マタイ6:13 大正文語訳聖書
「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。」 口語訳聖書
「私という港」
「私」という乗るべき舟がある。しかし、それとは別の舟に移りたいという思いがわたしにはある。だが、「私」という舟でなければ、「私」という港につくことはできない。「別の舟」に乗るまえに、その舟が連れて行く「港」のことを知るべきだ。その「舟」は行く港のない「彷徨える舟」かもしれない。
(心のデボーション5389)
心のデボーション5390
「汝おのれの目に自らを智慧ある者とする人を見るか 彼よりも却て愚なる人に望あり」 箴言26:12 明治元訳聖書
「自分の目に自らを知恵ある者とする人を、あなたは見るか、彼よりもかえって愚かな人に望みがある。」 口語訳聖書
「自らを誇る者」
自分を自ら知恵ある者とする者の高ぶりは手におえない。彼にくらべれば、「愚か者」のほうが、まだましだ。
彼は自分の愚かさが見えないばかりか、自分は神を知っていると誇る。勘違いである。
「誇る者は主を誇れ」。(Ⅰコリント1:31)
(心のデボーション5390)
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