心のデボーション5351
「即ちもろもろの不義・惡・慳貪・惡意にて滿つる者、また嫉妬・殺意・紛爭・詭計・惡念の溢るる者、」 ロマ1:29 大正文語訳聖書
「すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、」 口語訳聖書
「詐欺師」
「自分の愚かさのゆえにだまされて/惨めな思いをしなくて済むように、用心せよ」。(旧約聖書外典ベン=シラの知恵13:8新共同訳聖書) 詐欺師はけっして「怠け者」ではない。常に考え、新しい詐欺の開発に余念がない。神に従う者が彼らの「知恵への情熱」に劣ってよいだろうか。「詐欺δόλος」は「嘘、奸計、計略」の意である。
(心のデボーション5351)
心のデボーション5352
「ヱホバ言たまひけるは我若ソドムに於て邑の中に五十人の義者を看ば其人々のために其處を盡く恕さん」 創世18:26 明治元訳聖書
「主は言われた、「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。口語訳聖書
「名もなき人々」
もし十人の正しい人がいたら、神はソドムの町を赦すといわれる。時代の暗黒を見つづける人の存在によって世界は保たれる。しかし、この十人が誰かを知ることは決してできない。なぜなら、彼らは自分が世界の破滅を押しとどめていることを全く意識しない「名もなき人々」だからである。大切にしたいのは、十人の一人になることではなくて、その存在を信じたアブラハムになることである。
(心のデボーション5352)
心のデボーション5353
「されど我は汝らに告ぐ、すべて色情を懷きて女を見るものは、既に心のうち姦淫したるなり」 マタイ5:28 大正文語訳聖書
「しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」 口語訳聖書
「4つ目の不安」
「私の心は三つのものに不安を感じ/四つ目のものには、顔を向けるのさえ恐ろしい。/町の人々からの中傷、暴徒の群れ/誹謗。これらはすべて、死よりも耐え難いものだ」。(旧約聖書外典ベン=シラの知恵26:5新共同訳聖書) 不安の3つ「町の人々からの中傷、暴徒の群れ、誹謗中傷」は「死よりも耐え難い」。しかし、4つ目の「悪女への不安」は「顔を向けるのさえ恐ろしい」とベン=シラの知恵は告げる。だが、女性を「悪女」にするのは男である。
(心のデボーション5353)
心のデボーション5354
「その去り往きしのち、視よ、主の使、夢にてヨセフに現れていふ『起きて、幼兒とその母とを携へ、エジプトに逃れ、わが告ぐるまで彼處に留れ。ヘロデ幼兒を索(もと)めて亡さんとするなり』」 マタイ2:13 大正文語訳聖書
「彼らが帰って行ったのち、見よ、主の使が夢でヨセフに現れて言った、『立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている』」 口語訳聖書
「孤独な老人」
ヘロデは自分の地位を脅かす者は、たとえ我が子でも容赦しない。妻とその母、そして三人の息子がヘロデによって処刑されている。さらに今、幼子イエスも殺そうとする。ヘロデを「殺意に満ちた老人」にしたのは、老化によって自分が失おうとするものへの恐れだったのではないか。孤独から逃避するために愛するものを殺し、もっと深い孤独に踏み込んでいく。失うことをさえ受け入れるなら、人はイエスと出会う。
(心のデボーション5354)
心のデボーション5355
「穩かに居りて爭はざるは人の榮譽なりすべて愚なる者は怒り爭ふ」 箴言20:3 明治元訳聖書
「争いに関係しないことは人の誉である、すべて愚かな者は怒り争う。」 口語訳聖書
「不和の林檎」
「不和の林檎(Apple of Discord)」はギリシャ神話からとられた話で、ペレーウスとティティスの結婚式に招かれなかった「不和と争いを司る女神エリス」が怒って宴会の席に「最も美しい女神に」という文字の書かれた金の林檎を投げ込む。すると、招待された女神たちが、林檎を手に入れようとして大きな争いがおこった。「不和の林檎」に「最も強い戦いの神に」と書けば、男たちの間にも同じような争いがおこり、世界にひろがるだろう。
(心のデボーション5355)
心のデボーション5356
「懶惰ところよりして屋背は落ち 手を垂をるところよりして家屋は漏る」 伝道10:18 明治元訳聖書
「怠惰によって屋根は落ち、無精によって家は漏る。」 口語訳聖書
「魂の怠惰」
古典ギリシャ語ἀκηδίαは「退屈」をあらわし、「ἀ否定+κήδος関心、心遣い」からなり、「無気力」をあらわす。やることがないから「退屈」なのではない。「退屈(無気力、無関心)」だから、やることが見つからないのである。中世の修道士は「魂の怠惰ἀκηδία」を精神的危機として何よりも警戒した。霊的退屈は魂のいのちを奪う。
(心のデボーション5356)
心のデボーション5357
「この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦勞は一日にて足れり。」 マタイ6:34 大正文語訳聖書
「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」 口語訳聖書
「一日延ばし」
少々やっかいなことは、つい明日に延ばそうとする。そうやって、一日延ばしにすると、いつになっても「明日」はこないものだ。「今日」を伸ばすと、きっと、「また、明日」と考えるからだ。なすべきことに「明日」はない。先延ばしにできるくらいだから、些事なのかもしれない。しかし、些事もたまれば気分を重くする。なすべきことは、些事から先に片付けるがよい。
(心のデボーション5357)
心のデボーション5358
「ヨハネは神の言とイエス・キリストの證とに就きて、その見しところを悉とく證せり。」 黙示1:2 大正文語訳聖書
「ヨハネは、神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした。」 口語訳聖
「あかし」
「あかし」とは「水と血とをとおってこられた」主イエスがなされ、聖霊によってなされる「御霊と水と血の証し」であり、「神の子を信じる者は、自分のうちにこのあかしを持ち」、神が「御子について立てられたあかしである」。「そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである」。 (Ⅰヨハネ5:1-12 )
(心のデボーション5358)
心のデボーション5359
「我らに負債(おひめ)ある者を我らの免したる如く、我らの負債(おひめ)をも免し給へ」 マタイ6:12 大正文語訳聖書
「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」 口語訳聖書
「罪の赦し」
殺人犯が刑務所で悔改め、遺族に「わたしの罪は赦されました」と罪意識からの解放を告げることがある。また遺族が信仰から「わたしたちは殺人犯を赦します」と公表することもある。信仰の行為としての「罪の赦し」と犯罪の「罪の赦し」を混同してはならない。信仰のゆえに「罪を赦し」場合もあれば、同じ信仰のゆえに「罪の赦し」を拒否する場合もある。いずれにしても、「罪の赦し」は神の行為であって人間の行為ではない。私たちに出来るのは「赦し」を受け入れることのみである。 「負い目」は最期まで果たされなければならない。しかし、神の赦しの時が訪れたら、自分の一切の「負い目」を放棄しなければならない。
(心のデボーション5359)
心のデボーション5360
「かくて、これらの事を思ひ囘(めぐ)らしをるとき、視よ、主の使、夢に現れて言ふ、『ダビデの子ヨセフよ、妻マリヤを納(い)るる事を恐るな。その胎(たい)に宿る者は聖靈によるなり。』」 マタイ1:20 大正文語訳聖書
「彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。」 口語訳聖書
「神の道」
ヨセフは妻マリヤとの離縁を決意したが、なお「思いをめぐらせ」、実行をためらっていた。ヨセフを思いど留めたのは聖霊である。神が止める間は動いてはいけない。「〔神は〕へりくだる者を公義に導き、へりくだる者にその道を教えられる。」(詩篇25:9)からである。
(心のデボーション5360)
コメント