心のデボーション534

デボーション1
Generic selectors
完全一致
タイトルから
記事本文から
Post Type Selectors
Filter by Categories

心のデボーション5331

「命令の目的は清き心と善き良心と僞りなき信仰とより出づる愛にあり」 Ⅰテモテ1:15  大正文語訳聖書

「わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としている。」 口語訳聖書

 「清い心」

愛は、まず「清い心」から出る。「清い心καθαρός」は「混じりけのない、純粋な、清らかな」、「洗われた心」である。(エレミヤ4:14) 「清い心」は、神がわたしのうちに「新しい、正しい霊」を与えてくださり、わたしのために作られる。(詩篇51:10)

信仰の「命令παραγγελία(告知、教え)」を伝える者は、常に「わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください」と祈るのである。

(心のデボーション5331)

心のデボーション5332

「われ水のごとくそそぎいだされ わがもろもろの骨ははづれ わが心は蝋のごとくなりて腹のうちに鎔たり」 詩篇22:14  明治元訳聖書

「わたしは水のように注ぎ出され、わたしの骨はことごとくはずれ、わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた。」 口語訳聖書

 「賛美」

詩人の心はロウのようにぐずぐずと力なく「溶け」る。そのわけは「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という叫びにある。(詩篇22:1) 詩人の溶け崩れた心は賛美によって回復する。溶け崩れの中から神を賛美する、神はこの悩みを「さげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった」。「主を恐れる人よ。主を賛美せよ」。

(心のデボーション5332)

心のデボーション5333

「我なんぢの涙を憶え、わが歡喜の滿ちん爲に汝を見んことを欲す。」 Ⅱテモテ1:4  大正文語訳聖書

「わたしは、あなたの涙をおぼえており、あなたに会って喜びで満たされたいと、切に願っている。」 口語訳聖書

 「聖霊による喜び」

パウロは「あなたに会って喜びで満たされたい」とテモテに書き送る。志を同じにする者と出会うとき、どれほど魂は喜ぶことだろうか。それは「聖霊による喜び(χαρᾶς πνεύματος ἁγίου)」(Ⅰテサロニケ1:6)である。

(心のデボーション5333)

心のデボーション5334

「またその邑の街衢には男の兒女の兒滿て街衢に遊び戯れん」 ゼカリヤ8:5  明治元訳聖書

「またその町の街路には、男の子、女の子が満ちて、街路に遊び戯れる」 口語訳聖書

 「泥遊び」

雨の上がった日、近くのデッチョ池で、子どもたちが泥遊びをしている。泥の陣地をつくり、他の陣を攻撃しているのである。子どもから遊びがなくなるのは、関係を失うことである。子どもは遊びの中で人間関係を学ぶ。ゼカリヤの「遊ぶ」の語源は「笑う」である。子どもたちの「笑い声」に、私たちはいのちを学ぶのである。

(心のデボーション5334)

心のデボーション5335

「僞りなき神は、創世の前に、この生命を約束し給ひしが、」 テトス1:2  大正文語訳聖書

「偽りのない神が永遠の昔に約束された永遠のいのちの望みに基くのである。」 口語訳聖書

 「永遠のいのちの望み」

神は「偽りのない神ὁ ἀψευδὴς θεὸς」であり、「言ったことで、行わないこと」はなく、「語ったことで、しとげないこと」がない。(民数23:19)「永遠のいのちの望み」は、この「偽りのない神」が「永遠の昔に約束された望み」であり、今や魂に堅く据えつけられた望みである。

(心のデボーション5335)

心のデボーション5336

「われ祈るとき常に汝をおぼえて我が神に感謝す。」 ピレモン1:4  大正文語訳聖書

「わたしは、祈の時にあなたをおぼえて、いつもわたしの神に感謝している。」 口語訳聖書

 「あなたをおぼえて」

「祈の時にあなたをおぼえて」。(ピレモン1:4) 「おぼえてμνεία」は「口に出すごとに」の意。パウロは祈るとき、常に「同労者ピレモン」の名を挙げて祈った。ピレモンもまた、同じように祈るごとに、パウロの名を口にだして祈った。キリスト者の間には、常に祈るごとに、祈りの中に交わりが存在する。

(心のデボーション5336)

心のデボーション5337

「かつ神の御意により、歡喜をもて汝等にいたり、共に安んぜん爲なり」 ロマ15:32  大正文語訳聖書

「また、神の御旨により、喜びをもってあなたがたの所に行き、共になぐさめ合うことができるように祈ってもらいたい。」 口語訳聖書

 「いこい」

パウロはローマに行き、そこで、ともに「いこい」を得ることができるようにと祈っている。聖書で「いこいσυναναπαύομαι」は、「共に休み、共に元気づけ、共に慰める」を意味することばである。二人が互いに「自分」というものをそこに置くことをすれば、休みがあり、元気づけがあり、慰めがある。友と別れた後、自分はそこに「いた」だろうかと、心に問う。友はいこえただろうか 。

(心のデボーション5337)

心のデボーション5338

「智慧をえ聰明をえよ これを忘るるなかれ また我が口の言に身をそむくるなかれ」 箴言4:5  明治元訳聖書

「それを忘れることなく、またわが口の言葉にそむいてはならない、知恵を得よ、悟りを得よ。」 口語訳聖書

 「分別のパン」

「知恵は、彼に分別のパンを一口ずつ食べさせ/知恵の水を、飲ませてくれる」。(旧約聖書外典ベン=シラの知恵15:3新共同訳聖書) 「分別のパン」一口ずつ、毎日食べ、「知恵の水」は渇きをおぼえるごとに飲むことが「知恵」である。一度にあまりに大量のパンと水を飲めば腹をこわす。

(心のデボーション5338)

心のデボーション5339

「我らの日用の糧を今日も与え給え」 マタイ6:11 大正文語訳聖書

「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。」 口語訳聖書

 「今日は今日だけ」

「必要以上のものを求めるのではない。今日一日分だけを願うのです。今日は今日だけ(ἐπιούσιος)」 (藤井武『信仰生活』)

(心のデボーション5339)

心のデボーション5340

「御國の來らんことを。御意の天のごとく地にも行はれん事を。」 マタイ6:10  大正文語訳聖書

「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」 口語訳聖書

 「三つの聖意」

「爾の聖意あるままのものを、また聖意あるままの量を、また聖意あるままの時に與へたまへ」。(アケンピス「基督のまねび」内村達三郎訳 春秋社昭和21/ 2) 「三つの聖意」の一つを求めることをしてはならない。どれかを欠くことは御心ではない。三つのために祈れ。

(心のデボーション5340)

コメント