心のデボーション529

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心のデボーション5281

「婦ここにおいてサムソンよペリシテ人汝におよぶといひければ彼睡眠をさましていひけるはわれ毎のごとく出て身を振はさんと彼はヱホバのおのれをはなれたまひしを覺らざりき」 士師16:20  明治元訳聖書

「そして女が「サムソンよ、ペリシテびとがあなたに迫っています」と言ったので、彼は目をさまして言った、「わたしはいつものように出て行って、からだをゆすろう」。彼は主が自分を去られたことを知らなかった。」 口語訳聖書

 「鎧袖一触」

「鎧袖一触(がいしゅういっしょく)」は「鎧の袖でちょっと触れたただけで敵を倒せる」の意。江戸時代の史書「日本外史」に、源為朝が平清盛との戦いを目前にして語ったとされる言葉からきている。勇者サムソンは力の秘密をデリラに明かしたために神の力を失った。しかし、サムソンは自分から力が去ったことに気づかず、襲ってきたペリシテ人に「わたしはいつものように出て行って、からだをゆすろう」と豪語するが捕らえられ牢に繋がれる。(士師16:16-21)力を失ったサムソンは「再び頭の毛が伸びる」のを待たなければならない。「鎧袖一触」には常に力の本質を見誤る危険が伴う。

(心のデボーション5281)

心のデボーション5282

「葡萄酒を飮て醉天幕の中にありて裸になれり」 創世9:21  明治元訳聖書

「彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。」 口語訳聖書

 「欠点のある全き人」

ノアは「全き人」と呼ばれる信仰者であったが、酒に酔うと陽気になり、つい裸になってしまうという欠点もあった。ノアの次男はそんな父に顔をしかめ、その醜態を兄弟に告げ口する。長男と三男は、裸を見ないように後ろから酔ったノアに近づき、着物をかける。ノアは欠点のない「全き」父親であるよりも、欠点はあっても「全き人」と呼ばれる父親であったのであろうか。しかし、酒に酔って子どもに醜態を演じることがいいわけではない。

(心のデボーション5282)

心のデボーション5283

「この生命すでに顯れ、われら之を見て證をなし、その曾て父と偕に在して、今われらに顯れ給へる永遠の生命を汝らに告ぐ」 Ⅰヨハネ1:2 大正文語訳聖書

「このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――」 口語訳聖書

 「永遠のいのち」

「このいのちが現れたκαὶ ἡ ζωὴ ἐφανερώθη,」。(Ⅰヨハネ1:2) 「現れたἐφανερώθη」は「φανερόω現れる」のアオリストで過去に一度限り起こり完結した出来事をあらわす。イエス・キリストの十字架と復活によって「いのち」は完全に現わされ、現在も信じる者に継続して現わされ続け、影響を与え続けていることを示す。「この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである」。

(心のデボーション5283)

心のデボーション5284

「そはいのちの泉はなんぢに在り われらはなんぢの光によりて光をみん」 詩篇36:9  明治元訳聖書

「いのちの泉はあなたのもとにあり、われらはあなたの光によって光を見る。」 口語訳聖書

 「浅い水脈」

あるところによい水の湧く泉があった。水はごく浅い水脈から湧いていたのである。そこで、もっとよい水があるのではないかと、掘り下げることになった。しかし、出てきたのは質の悪い水だった。さらに掘ってみたが、水は悪くなるばかりで、あきらめて元のところまで埋め戻したのだが、よい水はもう出なかったということである。浅い水脈に湧く「いのちの泉」もある。もっとよい泉にしようと思わず、そっと大切に守るべきものである。

(心のデボーション5284)

心のデボーション5285

「地の極なるもろもろの人よ なんぢら我をあふぎのぞめ然ばすくはれん われは神にして他に神なければなり」 イザヤ45:22  明治元訳聖書

「地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。」 口語訳聖書

 「地の果ての人」

「地の果て(אֶפֶס)H657」は「何もないところ、人のいない、価値のないところ、無のもの」の意。使徒1:8「」ἕως ἐσχάτου τῆς γῆς」。何もない、見るべきもののないところから来た人よ、「神を仰ぎのぞめ、そうすれば救われる」。手になにももたず、ただ神を仰げ、神満たし給う。

(心のデボーション5285)

心のデボーション5286

「これイエス・キリストの默示なり。即ち、かならず速かに起るべき事を、その僕どもに顯させんとて、神の彼に與へしものなるを、彼その使を僕ヨハネに遣して示し給へるなり。」 黙示1:1  大正文語訳聖書

「イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。」 口語訳聖書

 「たましいの神」

黙示録は「すぐにも起るべきことをその僕たちに示すため」に、神が「キリストに与え」、そして「キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたもの」で」ある。(黙示1:1)「預言者たちのたましいの神なる主は、すぐにも起るべきことをその僕たちに示そうとして、御使をつかわされた」。(黙示21:6) 「預言者たちのたましいの神」が与えられた黙示は「人のたましいの神」において受けるべきことばである。黙示21:6で「たましい」と訳されたギリシャ語は「πνεῦμα霊」である。

(心のデボーション5286)

心のデボーション5287

「また天より聲あり、曰く『これは我が愛しむ子、わが悦ぶ者なり』」 マタイ3:17  大正文語訳聖書

「また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」 口語訳聖書

 「入江貝塚人」

一九五六年、北海道の入江貝塚で縄文人の骨が見つかった。それは頭蓋骨にくらべて全身の骨が病的に細い、二十歳前後の人骨であった。おそらく、この入江貝塚人は、乳幼児の頃から重い全身マヒをきたし、一生をほとんど寝たきりで過ごしたと思われるのである。今より短命だった縄文人としてみれば、二十歳という人生は短いものではない。弱い者を見る縄文人の目は、私たちよりずっと温かかったのかもしれない。

(心のデボーション5287)

心のデボーション5288

「惡きものの謀略にあゆまず つみびとの途にたたず 嘲るものの座にすわらぬ者はさいはひなり」 詩篇1:1  明治元訳聖書

「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。」 口語訳聖書

 「悪人の入れ知恵」

「悪しき者のはかりごとに歩まず」。(詩篇1:1) リビングバイブル(いのちのことば社)は「悪人の入れ知恵に耳を貸さず」と訳す。「悪者のはかりごとに光を添えることは良いことでしょうか」。(ヨブ10:3新改訳聖書)

「はかりごと(בַּעֲצַ֪ת )H6097」は「策略、計画、助言」の意。「悪しき者の入れ知恵」は抜け目ない道であるが滅びにつながる。LXXは「βουλήたくらみ、企て」と訳す。

(心のデボーション5288)

心のデボーション5289

「御國の來らんことを。御意の天のごとく地にも行はれん事を。」 マタイ6:10  大正文語訳聖書

「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」 口語訳聖書

 「地上天国」

人間の歴史において、いかなる「地上天国」も恐怖の対象でないものはなかった。「楽園」はすでに閉ざされたのである。完全な幸福は絶対の支配によってのみ約束されるからである。「天におけるように地の上にも」というキリスト者の祈りは「地上天国」を願うものでは決してない。

日本ではキリスト者の墓標に「わたしたちの本国は天にあります」(ピリピ3:20)と刻まれるのを見る。しかし、この墓標は見る者に、キリスト者が「日本国民」から「天の国民」に移った者という宣言に思え、妙な誤解を与えかねない。キリスト者は地の国籍を離れて(その責任を放棄して)天にある(生きる)者ではない。地に天の御心の行われることを祈りながら地に生きる者である。

(心のデボーション5289)

心のデボーション5290

「荒野に呼はる者の聲す、「主の道を備へ、その路すぢを直くせよ」』 と録されたる如く、」 マルコ1:3  大正文語訳聖書

「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と書いてあるように、」 口語訳聖

 「道筋」

「主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ」。(マルコ1:3) 「道筋τρίβος」は「足でふみかためられて自然にできた道」である。詳訳聖書日本語は「その踏みならされた道をまっずぐに<平らかに、通れるように>せよ」と訳す。「主の道」は預言者の足でふみかためられ、すでにできている道」であり、神はヨハネに「平らかに、通れるように>せよ」とお命じになったのである。その業はいつの時代にも継続されなければならない。

(心のデボーション5290)

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