心のデボーション5271
「主よわれ今なにをかまたん わが望はなんぢにあり」 詩篇39:7 明治元訳聖書
「主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります。」 口語訳聖書
「一縷の望み」
「一縷の望み」という。「一縷」は「一本の細い糸」の意である。「一縷」は中国の古典『晋書』(しんじょ)などに使われた表現で、日本に伝わり、「かすかなもの」「非常にわずかなもの」という意味につかわれるようになった。「一縷の望み」を大切にしたい。「一縷」であっても神に導く「一本の糸」である。
(心のデボーション5271)
心のデボーション5272
「ヱホバかれにいひたまひけるは汝の手にある者は何なるや彼いふ杖なり」 出エジプト4:2 明治元訳聖書
「主は彼に言われた、「あなたの手にあるそれは何か」。彼は言った、「つえです」。」 口語訳聖書
「モーセの杖」
神はモーセに「イスラエル人をエジプトから連れ出せ」と命じる。しかし、モーセは自分がその器なのかと自問する。しるしを求めるモーセに「あなたの手にあるそれは何か」という神の言葉がのぞむ。モーセの手にあるのは何の変哲もない一本の杖であった。「私には力がない」と自問する時、神が目を留められるのは取り立てていうべきところのない「一本の杖」である。それが、神のしるしである。
(心のデボーション5272)
心のデボーション5273
「懶惰は人を酣寐せしむ 懈怠人は饑べし」 箴言19:15 明治元訳聖書
「怠りは人を熟睡させる、なまけ者は飢える。」 口語訳聖書
「怠け癖」
ヒルティは「仕事をできないように邪魔しているのは、主に怠け癖である」と言う。((ヒルティ「幸福論」秋山英雄訳 角川文庫865 昭和29年11月)「怠惰は人を深い眠りに落とす」(箴言19:15新共同訳聖書)のである。
「怠けἀργός」には「無意味な」の意もある。意味のないことに心が彷徨い、仕事に向かう気持ちが失せる。「怠け癖」は「悪癖である」とヒルティも言っている。
(心のデボーション5273)
心のデボーション5274
「これらの事を命ずるは、汝らの互に相愛せん爲なり。」 ヨハネ15:17 大正文語訳聖書
「これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。」 口語訳聖書
「雁の群れ」
雁の群れはV字になって渡りをする。それは、前の雁が羽ばたきをしてできる気流に乗る方が、一羽で飛ぶよりもはるかに楽だからである。先頭を行く雁はさぞ疲れることだろう。そこで、先頭の雁は疲れると後にさがり、他の雁が替わるのである。自分はいつも人の後を飛んで楽チンだけしていると心配なら、後ろを見ればよい。あなたのおこす風に乗って助かっている人がきっといる。
(心のデボーション5274)
心のデボーション5275
「誰か智者に如ん誰か事物の理を解ことを得ん 人の智慧はその人の面に光輝あらしむ 又その粗暴面も變改べし」 伝道8:1 明治元訳聖書
「だれが知者のようになり得よう。だれが事の意義を知り得よう。人の知恵はその人の顔を輝かせ、またその粗暴な顔を変える。」 口語訳聖書
「競争」
イソップの狐はある日ぐっすり寝入った龍をみて、その身体の長さがうらやましくなり、龍の横に寝て同じように自分の身体を伸ばしたが、あまりにも無理をして身体が裂けてしまった。その教訓は「自分より優れた者と競争する者は、えてして彼らに追いつく前に自分がすっかり伸びてしまう」というものだ。(「イソップ寓話集」33 山本光雄訳 岩波書店1942/2)競争が悪いのではない。「決して追いつけないものと、同じになれると思う」ことが愚かなのだ。よし、狐の身体が龍と同じに「伸びた」ところで何の意味があろうか。もうそれは「狐」ではない。そもそも、自分を捨てても、憧れの他人になろうとするのは、自分の素晴らしさを全く知らぬ者のすることだ。
(心のデボーション5275)
心のデボーション5276
「讃むべきかな、我らの主イエス・キリストの父なる神、その大なる憐憫に隨ひ、イエス・キリストの死人の中より甦へり給へることに由り、我らを新に生れしめて生ける望を懷かせ、」 Ⅰペテロ1:3 大正文語訳聖書
「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、」 口語訳聖書
「生ける望み」
「生ける望みἐλπίδα ζῶσαν」とは「死の中より新たに生れさせてくださる」神からくる。「生けるζάω」は「沸き立つ、煮えたぎる、泡立つ、発酵する」で「生命のある(内に生命エネルギーが活動していること)」の意である。神は主イエス・キリストにより、内に「沸き立ち、煮えたぎり、泡立ち、発酵する」望みに私を新たに生まれさせてくださった。
(心のデボーション5276)
心のデボーション5277
「幸福ある日には樂め 禍患ある日には考へよ 神はこの二者をあひ交錯て降したまふ 是は人をしてその後の事を知ることなからしめんためなり」 伝道7:14 明治元訳聖書
「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。」 口語訳聖書
「逆境の日」
逆境の日に不運を嘆いてもあまり意味はない。自分を責めている人は、まだ逆境から逃げている。逆境の日に考えたいことは、「これもあれも神のなさること」である。神がそうされるからには、もっと深い到達点があるに違いない。あとは日々の営みに、黙々と取り組むことである。逆境の日を創られる神は、順境の日も創られる。やがて、順境の日がめぐってくる。
(心のデボーション5277)
心のデボーション5278
「願はくは平和の神、みづから汝らを全く潔くし、汝らの靈と心と體とを全く守りて、我らの主イエス・キリストの來り給ふとき責むべき所なからしめ給はん事を。」 Ⅰテサロニケ5:23 大正文語訳聖書
「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。」 口語訳聖書
「霊と心とからだ」
人間は地の塵をもって形づくられ、「神の息」を吹き入れられて生ける者となった。人間は「霊と心とからだ」をもって人間である。「霊πνεῦμα」は「精神、心、(知、情、意を代表する 精神生活の座としての)霊であり、(生命力としての、生のエネルギーの根源としての)息」であり、「心ψυχή」は「感情・意志・知性の根源としての精神、自我、自己、思い、心」であり、「からだσῶμα」は「人体、身体、肉体、生命、人間」である。
「平和の神ご自身が、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さる」。(Ⅰテサロニケ5:23)「完全に守ってὁλόκληρος」は「落ちどころのない、非の打ちどころのない、完備した者として」の意。
(心のデボーション5278)
心のデボーション5279
「御國の來らんことを。御意の天のごとく地にも行はれん事を」 マタイ6:10 大正文語訳聖書
「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」 口語訳聖書
「地」
「地γῆ」は「地、大地、土地、耕地、全地、国、地域、地方、故郷、祖国」を指す。地は「耕地」であり、人が耕し、種まく所である。地の実りによって人は生きる。「地」に神の「御心 θέλημα てれーマ」すなわち神の「意志、思い、決意、意欲、熱望、欲望、決心し願って望むこと」が実現しなければ、地は人の欲望のための掠奪の対象となるしかない。人類の欲望は恐ろしい勢いで「地の破壊」に向かっている。人間の欲望の肥大化は「地の資源」が枯渇するまで止むことはないであろう。「地の破壊」を食い止めるのは、人間が「地に生きる者」として自らの謙虚さを取り戻し、「神の御心」に従うことができるかにかかっている。
(心のデボーション5279)
心のデボーション5280
「既に芽ざせば、汝等これを見てみづから夏の近きを知る」 ルカ21:30 大正文語訳聖書
「はや芽を出せば、あなたがたはそれを見て、夏がすでに近いと、自分で気づくのである。」 口語訳聖書
「時のしるし」
「一葉落知天下秋」(一葉落ちて天下の秋を知る)。この葉は桐の葉のことで、あおぎりは他の樹よりの早く落葉するので、青桐の葉が一枚落ちるのを見れば秋がきたことがわかる。小さな兆しから後にくるものを推測することを言う。神の人は「時のしるし」を見て誤らない。
(心のデボーション5280)
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