心のデボーション5261
「ヱホバ智慧をもて地をさだめ 聰明をもて天を置たまへり」 箴言3:19 明治元訳聖書
「主は知恵をもって地の基をすえ、悟りをもって天を定められた。」 口語訳聖書
「一沐三捉髪」
「一沐三捉髪(いちもつさんそくはつ)」は「一度髪を洗う間に、三度、洗いかけの髪を握ったまま、客を待つ」の意、「一飯三哺」(史記魯周公)とも。「賢者に会うに人を選ばず、求めるに時を失わず」である。
(心のデボーション5261)
心のデボーション5262
「されば我等のうち成人したる者は、みな斯くのごとき思を懷くべし、汝等もし何事にても異なる思を懷き居らば、神これをも示し給はん。」 ピリピ3:15 大正文語訳聖書
「だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。」 口語訳聖書
「完全な人」
「全き人τέλειος」は「十分に成長した、完全な」の意。新改訳聖書は「成人」とも訳す。人はどこか完璧でないと安心できない。しかし聖書は完璧主義者を「まだ成人できていない人」、つまり「不完全な人」と見なす。自分の不完全を知って、人ははじめて「完全」である。本当に「完全な人」は、求めることをやめない。それで、とても若々しい。
(心のデボーション5262)
心のデボーション5263
「我なんぢの涙を憶え、わが歡喜の滿ちん爲に汝を見んことを欲す。」 Ⅱテモテ1:4 大正文語訳聖書
「わたしは、あなたの涙をおぼえており、あなたに会って喜びで満たされたいと、切に願っている。」 口語訳聖書
「テモテの涙」
パウロは「テモテの涙」を忘れない。それは「夜も昼も涙をもって」、「ひとりびとりを絶えずさとしてきた」(使徒20:31)テモテが流した涙であったろう。一人の人に福音が伝えられるために、夜も昼も流された涙のあることを忘れてはいけない。
(心のデボーション5263)
心のデボーション5264
「をんな産まんとする時は憂あり、その期いたるに因りてなり。子を産みてのちは苦痛をおぼえず、世に人の生れたる喜悦によりてなり」 ヨハネ16:21 大正文語訳聖書
「女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。」 口語訳聖書
「心を開く」
子どもは体をよじったり、頭の位置を変えたりしながら、自分で生まれてくるのだそうである。母親は生まれようとしている子どもに心を開き、痛みに耐える。このとき、母親が痛みに怯えて心を閉ざしてしまうと、子どもはなかなか生まれようとしないという。子どもが自立するとき、母親は再び、体をよじったり、頭の位置を変えたりしながら、自分で生まれようとする我が子に心を開き、自立の痛みを全身に受ける。そのようにして、子どもは新しい世界に出ていくのであろう。
(心のデボーション5264)
心のデボーション5265
「神の僕またイエス・キリストの使徒パウロ――我が使徒となれるは、永遠の生命の望に基きて神の選民の信仰を堅うし、また彼らを敬虔にかなふ眞理を知る知識に至らしめん爲なり。」 テトス1:1 大正文語訳聖書
「神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから――わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた者たちの信仰を強め、また、信心にかなう真理の知識を彼らに得させるためであり、」 口語訳聖書
「信心にかな真理の知識」
「信心にかなう真理の知識ἐπίγνωσιν ἀληθείας τῆς κατ᾽ εὐσέβειαν」。(テトス1:1)「κατ᾽ εὐσέβειαν」の「κατά」は「目的、目標」をあらわし「のための」の意。真に求むべきは、「信仰を目的とし、信仰に導く真理の知識」すなわち「生けるいのちの知識」である。神はその目的のために使徒をおこされた。
(心のデボーション5265)
心のデボーション5266
「我らの姉妹アピヤ、我らと共に戰鬪をなせるアルキポ及び汝の家にある教會に贈る。」 ピレモン1:2 大正文語訳聖書
「姉妹アピヤ、わたしたちの戦友アルキポ、ならびに、あなたの家にある教会へ。」 口語訳聖書
「家の教会」
「あなたの家にある教会τῇ κατ᾽ οἶκόν σου ἐκκλησίᾳ」。(ピレモン1:2) 初代教会時代においては福音は家族単位で受け入れられ、その「家」は教会として礼拝の場、宣教の場ととなり、多くの信徒の集う場所になり、「家の教会ἡ κατ’ οἶκον ἐκκλησία」と呼ばれ、初代教会の重要な役割を担った。「家」は聖書を学び、賛美し、祈り、交わりのなされるところであり、パウロの伝道旅行は各地にある「家の教会」を拠点として行われたのである。その重要性は現代もすこしも変わっていない。
(心のデボーション5266)
心のデボーション5267
「この故に神の能力ある御手の下に己を卑うせよ、さらば時に及びて神なんぢらを高うし給はん。」 Ⅰペテロ5:6 大正文語訳聖書
「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。」 口語訳聖書
「ちょうど良い時」
神はへりくだる者に恵みを与えてくださる。それはいつかといえば、「ちょうどよい時」だという。へりくだっているのだから、そろそろ恵みが与えられてもよさそうなのにというのは謙遜ではない。「ちょうど良い時」は、神がお決めになる。そのゆえに、へりくだる人は自分が低くされることに逆らわず、自分が高くされることにも抵抗したりしない。
(心のデボーション5267)
心のデボーション5268
「この末の世には御子によりて、我らに語り給へり。神は曾て御子を立てて萬の物の世嗣となし、また御子によりて諸般の世界を造り給へり。」 へブル1:2 大正文語訳聖書
「この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。」 口語訳聖書
「終わりの時」
「この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである」。(へブル1:2) 「終わりの時ἐσχάτου τῶν ἡμερῶν」とは、神が「御子によって、わたしたち〔わたしに〕に、「すべての物事の終わり、すなわち最終的出来事として」語られる」、福音による「回復の時」である。
(心のデボーション5268)
心のデボーション5269
「この故に汝らは斯く祈れ。『天にいます我らの父よ、願はくは御名の崇められん事を』」 マタイ6:9 大正文語訳聖書
「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。」 口語訳聖書
「主よ来たり給え」
「祈り」は「アーメン」で終わる。『十二使徒の教え』(『ディダケー(教え)Διδαχή,』)にある「感謝の祈り」は「マラナタ・アーメン」となっている。ギリシャ語で「μαράν ἀθά 主は来られた」の意味である。パウロはコリントの信徒への挨拶にこの言葉を口にしている。Ⅰコリント16:22 「μαράνα θα 主よ、来てください」。
祈りはすべて、「マラナタ 主よ来たり給え」をもって終わるものである。
(心のデボーション5269)
心のデボーション5270
「わが兄弟よ若なんぢら各樣の試誘に遇ば之を喜ぶべき事とすべし」 ヤコブ1:2 大正文語訳聖書
「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。」 口語訳聖書
「しばらくの間」
「あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合」(ヤコブ1:2)、それは「今しばらくのあいだ」と知れ。(Ⅰペテロ1:6)。いかなる試練も永遠に続くものではない。むしろ「あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変る」。(Ⅰペテロ1:7)
(心のデボーション5270)
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