心のデボーション5191
「汝らに患難を加ふる者に患難をもて報い、患難を受くる汝らに、我らと共に安息をもて報い給ふは、神の正しき事なり。」 Ⅱテサロニケ1:6 大正文語訳聖書
「すなわち、あなたがたを悩ます者には患難をもって報い、悩まされているあなたがたには、わたしたちと共に、休息をもって報いて下さるのが、神にとって正しいことだからである。」 口語訳聖書
「休息」
労働に対して求められる休息は、「精神なり肉体なりを、まるきり働かせないこと」に見出せるのではなく、反対に「心身を適度に振り分けて使うことによってのみ見出されるのである」。(ヒルティ「幸福論」秋山英雄訳 角川文庫865 昭和29年11月)「適度に精神を使う」ということが意外と難しい。「適度に肉体を使う」と組み合わせるとよいかもしれない。
(心のデボーション5191)
心のデボーション5192
「さらば彼らに效ふな、汝らの父は求めぬ前に、なんぢらの必要なる物を知りたまふ」 マタイ6:8 大正文語訳聖書
「だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。」 口語訳聖書
「必要・求め」
神は私が「必要χρεία(必要、必然、不足、欠乏、困窮、欠け)」とするものを、私が気づく前から知っておられる。「必要、必然、不足、欠乏、困窮」への気づきと「求めχρεία」は神からくる。神によらなければ人は自己の「必要χρεία」を知らない。人の真に必要とするものは、「神への必要χρεία」である。神は私に「必要、不足、欠乏、困窮、欠けていること」を私が気づく前に見抜かれている。あらかじめ「必要」に気づかれる神は、あらかじめ充たされる神である。「私」は神にありて充たされて居る。
「この故にわれらヱホバをしるべし切にヱホバを知ることを求むべしヱホバは晨光のごとく必ずあらはれいで雨のごとくわれらにのぞみ後の雨のごとく地をうるほし給ふ」 ホセア6:3 明治元訳聖書
(心のデボーション5192)
心のデボーション5193
「我パウロ手づから安否を問ふ。わが縲絏を記憶せよ。願はくは御惠なんぢらと偕に在らんことを。」 コロサイ4:18 大正文語訳聖書
「パウロ自身が、手ずからこのあいさつを書く。わたしが獄につながれていることを、覚えていてほしい。恵みが、あなたがたと共にあるように。」 口語訳聖書
「挨拶」
パウロはコロサイの教会に「挨拶を書き送る。(コロサイ4:18) 「挨拶」を意味するギリシャ語は「ἀσπασμός」で、この語は「挨拶」の意味に加えて、「抱擁、愛情」をあらわす言葉である。挨拶は相手への愛を伝えることばである。ドイツ語の「挨拶」は「Guten Tag」で、この語は「Guten(古高ドイツ語の「gūt」から派生し「善い、良い」を意味し、「Tag」はゲルマン祖語の「dagaz」に由来し、「日」を意味し、「良い日」で「私はあなたに善い日を望む」のニュアンスをもつ。日本語の「今日は」という挨拶は、元々、「今日はよいお天気ですね」と「今日」に何らかの言葉がつづいていた。相手への気遣いを示す言葉が「挨拶」であった。相手への「愛」を伝えようとすることにも通じる。
(心のデボーション5193)
心のデボーション5194
「さらば彼らに效ふな、汝らの父は求めぬ前に、なんぢらの必要なる物を知りたまふ」 マタイ6:8 大正文語訳聖書
「だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。」 口語訳聖書
「完全」
人間は内に「欠け」をもつ。「欠け」をもって「完全」でる。「欠け」は私に「必要、必然」であると同時に「充足」されるべきものである。その双方が「今、ここ」の私として与えられている。
(心のデボーション5194)
心のデボーション5195
「なんぢ明日のことを誇るなかれ そは一日の生ずるところの如何なるを知ざればなり」 箴言27:1 明治元訳聖書
「あすのことを誇ってはならない、一日のうちに何がおこるかを/知ることができないからだ。」 口語訳聖書
「急がば回れ」
「急がば回れ」という言葉の由来は諸説あるが、その一つは、琵琶湖の南部にある矢橋(やばせ)は古くから京都と江戸を結ぶ重要な交通路要所であったが、ここから渡し船で大津に渡れば、陸路をゆくよりもはるかに時間を短縮できるが、湖上は陸路にくらべて危険がおおきかった。そこで「急がば回れ」の諺ができたという。
現代は情報と技術の発展により、信じられない「短縮」が可能になった。では「急がば回れ」の諺は死語になったかといえば、むしろ、その重要性が増したのではないか。如何に短縮して情報を得たとしても、それを消化するには陸路を行くような時間を要するからである。
(心のデボーション5195)
心のデボーション5196
「我は人の金銀・衣服を貪りし事なし。」 使徒20:33 大正文語訳聖書
「わたしは、人の金や銀や衣服をほしがったことはない。」 口語訳聖書
「人の金や銀や衣服」
「わたしは、人の金や銀や衣服をほしがったことはない(「むさぼったことはない」新改訳聖書)」。(使徒20:33)
「むさぼるἐπιθυμέω」は「ほしがる、得よと努力する、あこがれる」の意。物であれ、才能であれ、他人の持ち物にあこがれるな。自分は自分の手足で働き、実を結ぶがよい。
(心のデボーション5196)
心のデボーション5197
「さらば彼らに效ふな、汝らの父は求めぬ前に、なんぢらの必要なる物を知りたまふ」 マタイ6:8 大正文語訳聖書
「だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。」 口語訳聖書
「效ふ」
漢字「效ふ」は「のっとる」の意味である。「彼の真似をする」は「彼をのっとる」ことである。それをすることに何の意味があろうか。子どもは知らずに親を真似る。それが親の悪しきところを「のっとる」ことであることに、しばらくしてから気づく。
(心のデボーション5197)
心のデボーション5198
「即ち父なる神の預じめ知り給ふところに隨ひて、御靈の潔により柔順ならんため、イエス・キリストの血の灑を受けんために選ばれたる者に贈る。願はくは恩惠と平安と汝らに増さんことを。」 Ⅰペテロ1:2 大正文語訳聖書
「すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。」 口語訳聖書
「御霊のきよめ」
「御霊のきよめにあずかっている人たちἐν ἁγιασμῶ πνεύματος」。(Ⅰペテロ1:2) 「御霊のきよめにあずかる」の直訳は「御霊のきよめの中にある」である。人間の努力によるきよめではなく、「御霊のきよめ」の中にいるべきこと。
(心のデボーション5198)
心のデボーション5199
「また祈るとき、異邦人の如くいたづらに言を反復すな。彼らは言多きによりて聽かれんと思ふなり」 マタイ6:7 大正文語訳聖書
「また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。」 口語訳聖書
「堂々巡り」
「堂々巡り」は、国会で審議を先に進ませないための戦術に使われたりもするのでイメージがよくない。「堂々巡り」という言葉は、社寺のお堂をまわって祈ることから来たものだという。「お百度参り」は拝殿と百度石の間を百回往復して祈願する。人に見られてはならず、人に言ってもいけない。大学受験の日など、天神さんには多くの人が百度を踏んでいる。その姿を見ると「そんなことをしても」とは言えなくなる。聖書には「求(もとめ)の切なるにより、起きて其の要する程のものを與へん」(ルカ11:8 大正文語訳聖書)とも言われている。
「いたづらに言を反復する」だけの「堂々巡り」もあれば、「求(もとめ)の切なるによりて」与えられることもある。両者は同じではない。
(心のデボーション5199)
心のデボーション5200
「願はくは神および我らの主イエスを知るによりて、恩惠と平安と汝らに増さんことを」 Ⅱペテロ1:2 大正文語訳聖書
「神とわたしたちの主イエスとを知ることによって、恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。」 口語訳聖書
「恵みと平安」
「恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように」。(Ⅱペテロ1:2) 「恵みと平安χάρις καὶ εἰρήνη」は切り離せない。恵みによらない平安はなく、平安のない恵みもない。恵みあるところに平安あり、平安あるところに恵みあり。
(心のデボーション5200)
コメント