心のデボーション5171
「げに信仰と希望と愛と此の三つの者は限りなく存らん、而して其のうち最も大なるは愛なり。」 Ⅰコリント13:13 大正文語訳聖書
「四葉のクローバー」
四葉のクローバーはめったには見つけられないので、見つけると幸運とされる。3つの葉につけられる名は、聖書から「信仰、希望、愛」が一般的で、4つめは「幸運」である。クローバは三つ葉があって、たまたま四葉が見つかる。「信仰と希望と愛」があるところに、「幸運」がやってくる。
「四葉のクローバーのシンボリズム」はいろいろあって、ChatGPTによる回答(OpenAI, 2024)によれば、「健康、富、名誉、成功」、「平和、幸福、繁栄、永遠」、「喜び、忍耐、調和、精神」など、それぞれ4枚目の葉にいたる条件として3葉があり、興味深い。
(心のデボーション5171)
心のデボーション5172
「即ち患難の大なる試練のうちに彼らの喜悦あふれ、又その甚だしき貧窮は吝みなく施す富の溢るるに至れり。」 Ⅱコリント8:2 大正文語訳聖書
「すなわち、彼らは、患難のために激しい試錬をうけたが、その満ちあふれる喜びは、極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て惜しみなく施す富となったのである。」 口語訳聖書
「惜しみなく施す富」
マザー・テレサは「貧しさは美しい」と語る。この人々は、何日も食べるもののない中で、やっと手に入れた一個のパンを隣人に分けるために二つに割るという。豊かさよりも貧しさの中で、人はより優しくなれるのかもしれない。しかし、人からうるおいを奪うのも貧しさである。貧しさにもかかわらず、人を美しく行為させるのは「満ちあふれる喜び」のゆえとパウロは語る。
(心のデボーション5172)
心のデボーション5173
「これキリスト・イエスを信ずる汝らの信仰と、凡ての聖徒に對する汝らの愛とにつきて聞きたればなり。」 コロサイ1:4 大正文語訳聖書
「これは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対していだいているあなたがたの愛とを、耳にしたからである。」 口語訳聖書
「キリスト・イエスの中にある信仰」
「キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰τὴν πίστιν ὑμῶν ἐν χριστῶ ἰησοῦ」は「キリスト・イエスにある(ἐν直訳「イエス・キリストの中に」)あなたがたの信仰」(聖書協会共同訳聖書)である。それは「〔イエス・キリストの〕愛によって働く信仰πίστις δι᾽ ἀγάπης ἐνεργουμένη」である。「互に愛し合うこと」は神から来る。(Ⅰテサロニケ4:9)
(心のデボーション5173)
心のデボーション5174
「この故に我なんぢらに告ぐ、何を食ひ、何を飮まんと生命のことを思ひ煩ひ、何を著んと體のことを思ひ煩ふな。生命は糧にまさり、體は衣に勝るならずや。」 マタイ6:25 大正文語訳聖書
「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。」 口語訳聖書
「愛されなかった子」
過食症の女性は悲しいまでに食べる。どんなに食べても充たされることのない空白が心にできているのである。彼女が食べては吐き出そうとしているのは、「愛されなかった子」としての自分であり、その自分を愛することができず、自分をあるがままに見ることも受け入れることもできない現実かもしれない。キリストはこの不安を食べることや飲むことの世界で解決するのではなく、神が存在させたままに生きなさいといわれるのである。
(心のデボーション5174)
心のデボーション5175
「これ汝らが信仰のはたらき、愛の勞苦、主イエス・キリストに對する望の忍耐を、我らの父なる神の前に絶えず念ふに因りてなり。」 Ⅰテサロニケ1:3 大正文語訳聖書
「あなたがたの信仰の働きと、愛の労苦と、わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐とを、わたしたちの父なる神のみまえに、絶えず思い起している。」 口語訳聖書
「愛の労苦」
「愛の労苦τοῦ κόπου τῆς ἀγάπης」。(Ⅰテサロニケ1:3) 雅歌8:6 「愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷だからです。そのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎です」。キリスト者の心はこの愛の炎に焼かれ、励まされて働く。
(心のデボーション5175)
心のデボーション5176
「信仰によりて我等は、もろもろの世界の神の言にて造られ、見ゆる物の顯るる物より成らざるを悟る。」 へブル11:3 大正文語訳聖書
「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。」 口語訳聖書
「利益と損失」
「内心の願いはたいてい、他人の損失において生まれ、育っていることに気がつくであろう」。(モンテーニュ「エセー」第22章 原二郎訳 筑摩書房昭和43年)あることの「利益」は、ある者の「損失」で成り立つ。それを避けることはできない。ただ、そうと知っておくことが心の成熟のために必要である。物事は自分の側だけで成り立つのではなく、自分の外を含めて動いており、その中に自分がある。
(心のデボーション5176)
心のデボーション5177
「ヤコブよなんぢを創造せるヱホバいま如此いひ給ふ イスラエルよ汝をつくれるもの今かく言給ふ おそるるなかれ我なんぢを贖へり 我なんぢの名をよべり汝はわが有なり」 イザヤ43:1 大正文語訳聖書
「ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。」 口語訳聖書
「ふつつかトマト」
ある人のところに売り物にならない、かたちのわるいトマトが送られてきた。送り主はこれを「ふつつかトマト」と呼ぶ。心あたたまることばである。心の世界ではかたちの整ったものは気持ちが悪く、デコボコ具合を個性として大切にする。そして、「ふつつかながら、よろしくね」が日常の挨拶になる。
(心のデボーション5177)
心のデボーション5178
「然ながら義しき者はその道を堅く持ち 手の潔淨き者はますます力を得るなり」 ヨブ17:9 明治元訳聖書
「それでもなお正しい者はその道を堅く保ち、/潔い手をもつ者はますます力を得る。」 口語訳聖書
「義人の道」
「正しい者〔義人〕はその道を堅く保つ」。(ヨブ17:9) そして、「正しい者〔義人〕の道は、夜明けの光のようだ、いよいよ輝きを増して真昼となる」。(箴言4:18) 「義人の道」を歩む者は「あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く」人である。(イザヤ30:21)
(心のデボーション5178)
心のデボーション5179
「また祈るとき、異邦人の如くいたづらに言を反復すな。彼らは言多きによりて聽かれんと思ふなり」 マタイ6:7 大正文語訳聖書
「また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。」 口語訳聖書
「多弁、饒舌、おしゃべり」
「言葉数が多い βατταλογέω バッタろゲオー」は「多弁、饒舌、おしゃべり」のこと。「多弁、饒舌、おしゃべり」の人は自分のことを語るのに忙しく、聞く耳をもたない。言葉数さえ多ければ神は「言うことを聞く」という思い込みは、その祈りによって神を従わせようとするのである。それは熱心な祈りというよりも、「多弁、饒舌、おしゃべり」の「演説」である。
(心のデボーション5179)
心のデボーション5180
「我マケドニヤに往きしとき汝に勸めし如く、汝なほエペソに留まり、ある人々に命じて、異なる教を傳ふることなく、」 Ⅰテモテ1:3 大正文語訳聖書
「わたしがマケドニヤに向かって出発する際、頼んでおいたように、あなたはエペソにとどまっていて、ある人々に、違った教を説くことをせず、」 口語訳聖書
「異なる福音」
「違った教ἑτεροδιδασκαλέω」は「ἕτερος+διδασκαλία教え」で、「ἕτερος」は「二つのうちの一方」の意で、福音に対して「もう一つの福音」すなわち「異なる福音」である。「異なる福音」はしばしば、「ひとりの教祖(または、教祖的指導者)」の説く聖書解釈から始まり、人から正しい思考を奪うものである。
(心のデボーション5180)
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