心のデボーション517

デボーション1
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心のデボーション5161

「書をコリントに在る神の教會、即ちいづれの處にありても、我らの主、ただに我等のみならず彼らの主なるイエス・キリ ストの名を呼び求むる者とともに、聖徒となるべき召を蒙り、キリスト・イエスに在りて潔められたる汝らに贈る。」 Ⅰコリント1:2  大正文語訳聖書

「コリントにある神の教会、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々と共に、キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ。このキリストは、わたしたちの主であり、また彼らの主であられる。」 口語訳聖書

 「教会の一致」

「このキリストは、わたしたちの主であり、また彼らの主であられる」。(Ⅰコリント1:2) 「至る所で、主イエス・キリストの御名を呼び求めている人々」に、主イエスは「私たちの主」であると共に、「その人々の主」である。この故に、教会は「異なる地にある教会」を愛し、敬う。主イエス・キリストにある一致が、互いの痛みを担うのである。

「平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい」。(エペソ4:3)

(心のデボーション5161)

心のデボーション5162

「直ちに彼の目より鱗のごときもの落ちて見ることを得、すなはち起きてバプテスマを受け、」  使徒9:18  大正文語訳聖書

「するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、」 口語訳聖書

 「目からうろこ」

キリスト教徒を迫害していたサウロは、ダマスコの途上でまばゆい光の中にイエスの声を聞き、回心を経験する。サウロは一時、視力を失うが、目からうろこλεπίςのようなものが落ちて再び見えるようになる。「目からうろこ」はそのような経験を意味する。ものごとの真相は考えてわかるというよりも、何かをきっかけにして、「目からうろこ」のように、いきなり開かれる。その経験がデボーションである。

(心のデボーション5162)

心のデボーション5163

「讃むべき哉、われらの主イエス・キリストの父なる神、即ちもろもろの慈悲の父、一切の慰安の神、」  Ⅱコリント1:3  大正文語訳聖書

「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。」 口語訳聖書

 「あわれみ深き父」

神は「あわれみ深き父ὁ πατὴρ τῶν οἰκτιρμῶν」である。「あわれみ深いοἰκτιρμός」は「深い憐れみ、深い慈悲」の意。神は「忍耐と励ましの神」(ロマ15:5)であり、「神のみことば」によって「希望」を持たせ給うお方である。(ロマ15:4)神の持たせ給う希望は失望に終わることがない。(ロマ5:5)

(心のデボーション5163)

心のデボーション5164

「獣の中にて最も強くもろもろのものの前より退かざる獅子」 箴言30:30  明治元訳聖書

「すなわち獣のうちでもっとも強く、何ものの前にも退かない、しし、」 口語訳聖書

 「退かない雄獅子」

歩き振りの堂々としたものが四つ、何ものからも退かない雄獅子、いばって歩くおんどり、雄山羊、そして、軍隊を率いる王。いずれも、ひとたび動けば、何人もその歩みを阻むことはできない。しかし、その欠点は退くことを知らないことである。彼らは、たとえそれが破滅であっても、威風堂々、それに向かって突き進み、その歩みを崩すことはない。負けを知って、退くことのできるのが、本当の強い人である。

(心のデボーション5164)

心のデボーション5165

「神よなんぢの嗣業の地のつかれおとろへたるとき豊かなる雨をふらせて之をかたくしたまへり」 詩篇68:9  明治元訳聖書

「神よ、あなたは豊かな雨を降らせて、疲れ衰えたあなたの嗣業の地を回復され、」 口語訳聖書

 「雨のように」

「知恵は知恵と聡明な悟りを雨のように降らせ、知恵を固く保つ者の栄光を高める」。(旧約聖書外典ベン=シラの知恵1:19  フランシスコ会訳聖書)「主は知恵にまみえておのが分を分かち与え、また知識と聡明とを雨のごとく降らし、堅くこれを保つ者の光栄を高む」(日本聖公会訳聖書) 神は御自身に属する「知恵」を惜しげもなく人間に賜り、「雨のごとく降らし」、その実を結ばれる。それを受け取るのは、すべての「神をおそれる人々」である。「雨のごとくに」は控えめな表現である。

(心のデボーション5165)

心のデボーション5166

「主は我らの父なる神の御意に隨ひて、我らを今の惡しき世より救ひ出さんとて、己が身を我らの罪のために與へたまへり。」 ガラテヤ1:4  大正文語訳聖書

「キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。」 口語訳聖書

 「今の悪の世」

キリストは「わたしたちを今の悪の世から救い出される」。(ガラテヤ1:4) 「今の悪の世ἐκ τοῦ αἰῶνος τοῦ ἐνεστῶτος」、「今ἐνίστημι」は「差し迫っている」の意、「現在の事実ではなく、殆ど現在になっている未来」(岩隈直「新約ギリシャ語辞典」)である。現代の内と外に、「殆ど現在になっている未来の悪」に気づかねばならない。主はその悪から、人間と社会を救われる。

(心のデボーション5166)

心のデボーション5167

「しかる時はなんぢのひかり暁の如くにあらはれいで 汝すみやかに愈さるることを得 なんぢの義はなんぢの前にゆき ヱホバの榮光はなんぢの軍後となるべし」 イザヤ58:8  明治元訳聖書

「そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる。」 口語訳聖書

 「しんがりの主」

イスラエルがエジプトを脱出した時、神は、昼は雲の柱、夜は火の柱の中におられて、民の前を進み、時として民の後ろを進まれた。(出エジプト13:21; 14:19) 前を進まれる主に導かれることは大切である。しかし、その主がしんがりとして後ろを進まれることを知るのは、もっと大切である。主の栄光がしんがりとなってくださると知って、安息が来る。人は一人ではない。

(心のデボーション5167)

心のデボーション5168

「ヱホバ如此いひたまふ 人ぶだうのなかに汁あるを見ばいはん これを壞るなかれ福祉その中にあればなりと 我わが僕等のために如此おこなひてことごとくは壞らじ」 イザヤ65:8  明治元訳聖書

「主はこう言われる、「人がぶどうのふさの中に、ぶどうのしるのあるのを見るならば、『それを破るな、その中に祝福があるから』と言う。そのようにわたしは、わがしもべらのために行って、ことごとくは滅ぼさない。」 口語訳聖書

 「房の中の甘い汁」

「人がぶどうのふさの中に、ぶどうのしるのあるのを見るならば(「ぶどうのふさの中に甘い汁があるのを見れば」新改訳聖書)」、「それを破るな(損なうな)、その中に祝福があるから」。(イザヤ65:8) 自分の中には、きっと「甘い汁」の房がある。それを「損なうな」、「その中に祝福がある」。

(心のデボーション5168)

心のデボーション5169

「また祈るとき、異邦人の如くいたづらに言を反復すな。彼らは言多きによりて聽かれんと思ふなり」 マタイ6:7 大正文語訳聖書

「また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。」 口語訳聖書

 「異邦人の祈り」

ユダヤ人には異邦人の会話は理解不能で、空虚な無駄事の繰り返しに聞こえた。「異邦人の祈り」とは、異邦人の言葉にしか聞こえない「祈り」のことであろう。キリスト者として異教徒の祈りを蔑んではならない。異邦人の祈りが「空虚な無駄事の繰り返し」なのではなく、キリスト者の「空虚な無駄事の繰り返しの祈り」が意味の分からない「異邦人の言葉」のようだと言われるのである。

(心のデボーション5169)

心のデボーション5170

「是なんぢら初の日より今に至るまで、福音を弘むることに與るが故なり。」 ピリピ1:5  大正文語訳聖書

「あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。」 口語訳聖書

 「最初の日から今日まで」

ピリピの教会は「最初の日から今日までἀπὸ τῆς πρώτης ἡμέρας ἄχρι τοῦ νῦν、福音を広めることにあずかって来た」。(ピリピ1:5) 彼らは福音に出会った「最初の日から」、ただちに福音を広めることをはじめ、「今日まで」続けていた。福音宣教とは身におきたことを、そのまま人に伝えることだからである。語らすにはいられなかったのである。

(心のデボーション5170)

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