心のデボーション516

デボーション1
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心のデボーション5151

「ヱホバ集會の幕屋よりモーセを呼びこれに告て言たまはく」 レビ1:1   明治元訳聖書

「主はモーセを呼び、会見の幕屋からこれに告げて言われた、」 口語訳聖書

 「会見の幕屋」

神は「会見の幕屋」からモーセに語られた。(レビ1:1) 「会見の幕屋(מֵאֹ֥הֶל מוֹעֵ֖ד)」(LXXτῆς σκηνῆς τοῦ μαρτυρίου)、新共同訳聖書は「臨在の幕屋」と訳す。「会見の幕屋」は、神が「その所でわたしはあなたに会い、贖罪所の上から、あかしの箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために、わたしが命じようとするもろもろの事を、あなたに語るであろう」(出エジプト25:22)と言われた、神が人と会見する場所であり、「和解と赦しの場」であった。「和解と赦し」はイエス・キリストの十字架と復活によって成就し、神はイエス・キリストにおいて、人と「会見」される。そこは「神の臨在の場」である。

(心のデボーション5151)

心のデボーション5152

「そは神には偏り視給ふこと無ければなり。」 ロマ2:11  大正文語訳聖書

「なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。」 口語訳聖書

 「えこひいき」

ギリシャ語で「えこひいき」はプロソーポレームプシア(προσωπολημψία)で「顔」と「取る」という二つのことばの合成語である。「えこひいき」は一方に片寄って特別に目をかけること。片寄った判断は、全体ではなく一部しか見ないという点で「顔を取る」。ところで、神は「えこひいきなさらない」とあるが、実に「えこひいき」なさるのではないか。私は自分が神に「えこひいき」されていると思う。

(心のデボーション5152)

心のデボーション5153

「御子は肉によれば、ダビデの裔より生れ、」 ロマ1:3  大正文語訳聖書

「御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、」 口語訳聖書

 「御子を告白する霊」

人となられたイエス・キリストを告白する霊は、「すべて神から出ているものであり」、「こうして〔あなたがたは〕神の霊を知るのである」。(Ⅰヨハネ4:2) 「神の霊を知る」ことは、いわゆる神秘的霊体験によるものではない。それを証しするのは唯一、「人となられたイエス・キリストへの告白」においてである。

(心のデボーション5153)

心のデボーション5154

「書をコリントに在る神の教會、即ちいづれの處にありても、我らの主、ただに我等のみならず彼らの主なるイエス・キリ ストの名を呼び求むる者とともに、聖徒となるべき召を蒙り、キリスト・イエスに在りて潔められたる汝らに贈る。」 Ⅰコリント1:2  大正文語訳聖書

「コリントにある神の教会、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々と共に、キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ。このキリストは、わたしたちの主であり、また彼らの主であられる。」 口語訳聖書

 「至る所で」

コリントの信徒たちは「至る所で」、「主イエス・キリストの御名を呼び求める」人々であった。(Ⅰコリント1:2)

「至る所ἐν παντὶ τόπῳ」は「どんな所、どんな場面でも」の意。聖徒とは「「どんな所、どんな場面にも」神の臨在を見出し、祈る人のことである。

(心のデボーション5154)

心のデボーション5155

「讃むべき哉、われらの主イエス・キリストの父なる神、即ちもろもろの慈悲の父、一切の慰安の神、」 Ⅱコリント1:3  大正文語訳聖書

「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。」 口語訳聖書

 「ほむべきかな、わたしたちの主」

「ほめられる」べきは人ではなく、「わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神」である。(Ⅱコリント1:3) 「ほめるεὐλογητός(賛美、感謝)」は「すべての祝福とさんびを越える」(エレミヤ)。人の神への貧しい賛美と感謝を、神は「すべての祝福とさんびを越える賛美」と聴き給う。

(心のデボーション5155)

心のデボーション5156

「アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟らとを生み、」 マタイ1:2  大正文語訳聖書

「アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、」 口語訳聖書

 「大祭司キリスト」

マタイの系図は主イエスが「ユダ族」であることを明らかにする。ヨセフの妻マリヤは、レビ族の祭司、アロンの末裔のザカリヤの妻エリサベツと親戚であったことから、「レビ族でアロンの末裔」であったと思われる。イエス・キリストは祭司職の部族「ユダ族」ではなかったが、(へブル7:13) 「肉につける戒めの律法によらないで、朽ちることのないいのちの力によって立てられ」、(へブル7:16)「ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない」にもかかわらず、「自分をささげて、一度だけ〔十字架に罪のいけにえとして御自分をささげられ〕、「メルキゼデクに等しい大祭司ἀρχιερεύς」となられたのである。

(へブル7:11-28)

(心のデボーション5156)

心のデボーション5157

「荒野に呼はる者の聲す、『主の道を備へ、その路すぢを直くせよ』 と録されたる如く」 マルコ1:3 大正文語訳聖書

「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と書いてあるように、」 口語訳聖書

 「荒野にて」

「荒野 ἔρημος  エレーモス」は「荒涼とした人のすまない地」である。そこは人間からすべてを剥ぎ取る「砂漠」であり、「不毛の地」である。ユスティノスは「神の知識に欠けた土地、異邦人の地」と呼んでいる。(ユスティノス「ユダヤ人トリュフォンとの対話」)人はそこで星を見上げ、神の声を聴く。

(心のデボーション5157)

心のデボーション5158

「良き地に播かれしとは、御言をききて悟り、實を結びて、あるひは百倍、あるひは六十倍、あるひは三十倍に至るものなり」 マタイ13:23  大正文語訳聖書

「また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」 口語訳聖書

 「うつけ地」

「百姓伝記」には「うつけ地」という項がある。「うつけ地と云ものは、作毛をつくることは籾をき、万木諸草取付得ず。然ども寸地も捨る所なし。終には宝土になるべし」。「うつけ地」は草も生えない空き地だが、そんな地も「惜しみて耕せばみのり豊かな地となる」という。(「百姓伝記」古島敏夫校注 岩波文庫1977/4)

内なる「うつけ」も「捨る所なし」であろうか。「良き地」ももとは草も生えない「うつけ地」だった。

(心のデボーション5158)

心のデボーション5159

「その選び給へる使徒たちに、聖靈によりて命じたるのち、擧げられ給ひし日に至るまでの事を記せり。」 使徒1:2  大正文語訳聖書

「お選びになった使徒たちに、聖霊によって命じたのち、天に上げられた日までのことを、ことごとくしるした。」 口語訳聖書

 「近寄って、これを聞け」

「聖霊によって命じられる」は、神のことばであるイエス・キリストに「近寄って、これを聞く」(イザヤ48:16)ことである。「わたしは初めから、ひそかに語らなかった。それが成った時から、わたしはそこにいたのだ」。(イザヤ46:16)

(心のデボーション5159)

心のデボーション5160

「この言は太初に神とともに在り」 ヨハネ1:2  大正文語訳聖書

「この言は初めに神と共にあった。」 口語訳聖書

 「この道」

「この言は初めに神と共にあった」。(ヨハネ1:2) 本節を明治元訳聖書は「この道は太初に神と偕に在き」と訳した。「ことば」は「道」である。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。(ヨハネ14:6)

(心のデボーション5160)

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