心のデボーション515

デボーション1
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心のデボーション5141

「アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟らとを生み、」 マタイ1:2  大正文語訳聖書

「アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、」 口語訳聖書

 「イサクはヤコブの父」

ヤコブの兄エソウが退けられ、弟ヤコブが選ばれたのは、兄エソウが調子の権を軽蔑し、神の祝福に心をとめなかったからである。(創世25:27-34) 神の御名を侮る祭司たちは「われわれはどんなふうにあなたの名を侮ったか」と言う。(マラキ1:2-8)その行為が神を侮っているのである。

(心のデボーション5141)

心のデボーション5142

「されど汝らとその櫃との間には量りて凡そ二千キユビト許の隔離あるべし之に近づく勿れなんぢらその行べき途を知んためなり汝らは未だこの途を經しことなかりき」 ヨシュア3:4  明治元訳聖書

「そうすれば、あなたがたは行くべき道を知ることができるであろう。あなたがたは前にこの道をとおったことがないからである。しかし、あなたがたと箱との間には、おおよそ二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない」 口語訳聖書

 「分岐点」

人生は、しばしば、自分の通ったことのない「新しい道」に出る。見たことのない風景に出会う楽しみもある。しかし、その分岐点では、「あわてたり」「逃げるようにして」新しい道を選ぶべきではない。(イザヤ書52:12) そこで立ち止まって、神のさらなる導きを祈る。そこに神が「在す」のが確認できたら、進んでもよいのではないか。神の「かすかな細い声」に導かれたら、大胆に進むことだ。数々の不思議に出会うに違いない。(Ⅰ列王記19:11-12)

(心のデボーション5142)

心のデボーション5143

「預言者イザヤの書に、 『視よ、我なんぢの顏の前に、わが使を遣す、 彼なんぢの道を設くべし。』」 マルコ1:2  大正文語訳聖書

「預言者イザヤの書に、「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。」 口語訳聖書

 「使をあなたの先につかわし」

「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし」。(マルコ1:2) 「つかわすἀποστέλλω」は「使命を与えて遣わす」の意。文語訳聖書は「遣す」の字をあてる。「遣」は「両手で物の一部を相手に渡す」の意である。神は、ある人をたて、渡すものを託して、遣わされる。神からの使者は「神のことば」を両手にささげ持って私に遣わされたのである。

(心のデボーション5143)

心のデボーション5144

「實に然り、彼らは不信によりて折られ、汝は信仰によりて立てるなり、高ぶりたる思をもたず、反つて懼れよ。」 ロマ11:20  大正文語訳聖書

「まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。」 口語訳聖書

 「バブル」

「高ぶりὑψηλός」は「ふいご」を意味することばからきている。網の上のモチのように、ぷっとふくれる。ふいごで空気を送れば、どこまでもふくらむ。しかし、中は空なので、ちょっとつつかれただけで一気にしぼんでしまう、たわいないものでもある。高ぶりというバブルも、はじけた後の始末はやっかいである。小さいうちにつぶしておくのが上策である。

(心のデボーション5144)

心のデボーション5145

「テオピロ閣下よ、汝の教へられたる事の慥なるを悟らせん爲に、これが序を正して書き贈るは善き事と思はるるなり。」 ルカ1:4  大正文語訳聖書

「すでにお聞きになっている事が確実であることを、これによって十分に知っていただきたいためであります。」 口語訳聖書

 「福音」

聖書に聞いた「福音」が「確実であるἀσφάλεια(「正確な事実である」新改訳聖書)かは、「イエスは神の子キリストであると信じ、また、そう信じて、イエスの名によって命〔尽きることのない新しいいのち〕を得た」かどうかによって確かめられる。(ヨハネ20:31)

(心のデボーション5145)

心のデボーション5146

「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。」 ヨハネ1:1  大正文語訳聖書

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」 口語訳聖書

 「神のロゴスなるイエス」

「言は神と共にあったὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν」。(ヨハネ1:1) 神は「ことば」をもって天と地を創造された。「神は「光あれ」と言われた。すると光があった」。(創世1:3) 神が「光よあれ」といわれると「光がある」。そこにいささかの躊躇いもない。「神のことばλόγος」は空しく彷徨うことがない。神の口から出たロゴスは、神の業をなして、神に帰る。主イエス・キリストは「生ける神の」ことばλόγος」であり、「父〔父の口〕から出てこの世にきて、〔父なる神の業をなし終え〕、この世を去って、父のみもとに〔父の口に〕行く〔帰られた〕」のである。(ヨハネ16:28) 人は神の口から「かく在れ」との言葉によって存在を得、業をなし終えて神に帰る。

(心のデボーション5146)

心のデボーション5147

「我らの大祭司は我らの弱を思ひ遣ること能はぬ者にあらず、罪を外にして凡ての事、われらと等しく試みられ給へり。」 へブル4:15  大正文語訳聖書

「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。」 口語訳聖書

 「心を同じくする」

同情されるのも、するのも、あるためらいが残る。それは、どちらかが有利な立場に立ち、不利なものを慰めようとするからだろう。しかし、「同情συμπαθέω」とは「心を同じくする」ことである。上も下もなく、相手と同じ心になる。そこには相手を哀れむ気持ちはない。キリストは弱い私と「心を同じに」してくださる。

(心のデボーション5147)

心のデボーション5148

「その選び給へる使徒たちに、聖靈によりて命じたるのち、擧げられ給ひし日に至るまでの事を記せり。」 使徒1:2  大正文語訳聖書

「お選びになった使徒たちに、聖霊によって命じたのち、天に上げられた日までのことを、ことごとくしるした。」 口語訳聖書

 「聖霊によって」

「聖霊によってδιὰ πνεύματος ἁγίου」。(使徒1:2) 主イエスは「聖霊」によって信じる者にお命じになる。「聖霊」は「知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である」。(イザヤ11:2) 主の霊とともにある者は「主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず、正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる」。(イザヤ11:2-5)

(心のデボーション5148)

心のデボーション5149

「なんぢは祈るとき、己が部屋にいり、戸を閉ぢて隱れたるに在す汝の父に祈れ。さらば隱れたるに見給ふなんぢの父は報い給はん」 マタイ6:6 大正文語訳聖書

「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」 口語訳聖書

 「奥座敷」

トマス・アケンピスは「如何に神聖な道院であろうとも、又は如何に静寂な場所であろうとも、誘惑と困難とのない所はない」と言っている。(トマス・アケンピス『基督のまねび』)

「monaste-rion モナステリオン 独りぼっちになる場所」「奥まった自分の部屋 tameios タメイオス」にも「誘惑と困難」がある。

(心のデボーション5149)

心のデボーション5150

「かくのごとき數多の譬をもて、人々の聽きうる力に隨ひて、御言を語り、」 マルコ4:33  大正文語訳聖書

「イエスはこのような多くの譬で、人々の聞く力にしたがって、御言を語られた。」 口語訳聖書

 「聞く力」

「イエスは…、人々の聞く力にしたがって、御言を語られた」。(マルコ4:33) 聞く人々の能力に応じた「御言葉」があるのではないし、能力のない人には優しく語ればよいのでもない。神の御言葉は「聞く力καθὼς ἠδύναντο ἀκούειν」に従って、その人の耳に届くのである。「聞く力ἀκούω」は「傾聴する、聞き従う、聞き分ける」能力であり、神からの賜物である。いかなる知者も「耳が鈍くなっている」(へブル5:11)なら、神の御言葉は届かない。

(心のデボーション5150)

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