心のデボーション5111
「われ山にむかひて目をあぐ わが扶助はいづこよりきたるや」 詩篇121:1 明治元訳聖書
「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。」 口語訳聖書
「助け」
イソップの狐は、ある時、垣根の上から足をすべらせて落ちそうになり、救いをもとめて木苺をつかんだ。そのため、木苺の棘に足を刺されて、「助けぬしとおもって掴んだのにひどい目にあった」と怒ると、木苺が「棘のある僕を掴むのが間違いさ」と言う。(「イソップ寓話集」31 山本光雄訳 岩波書店1942/2)
この教訓は「災いをもたらすものに救いを求める者は間抜けだ」ということだが、垣根から落ちそうなときに、木苺を掴んでいのちが救われたのなら、棘に足を刺されたことに不平を言う方が間違っている。だが、最も大切なことは、いうまでもないが、垣根にのぼるなら落下しないことだ。それが「救い」を求める行為である。
(心のデボーション5111)
心のデボーション5112
「ヨシユアまた民に言ふ汝ら身を潔めよヱホバ明日なんぢらの中に妙なる事を行ひたまふべしと 」 ヨシュア3:5 明治元訳聖書
「ヨシュアはまた民に言った、「あなたがたは身を清めなさい。あす、主があなたがたのうちに不思議を行われるからである」 口語訳聖書
「身をきよめる」
ヨシュアはイスラエルに「あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから」、「身をきよめなさい」と命じる。「きよめる」は「切り離し」を意味する。気になることから思いを「切り離し、神に向ける」ことである。それが神の不思議を経験する条件である。切り離しには少しだけ勇気が必要だ。ヨルダン川の流れに、一歩を踏み出さなければならない。不思議のない人生は安全だが、つまらない。
(心のデボーション5112)
心のデボーション5113
「また主は我を凡ての惡しき業より救ひ出し、その天の國に救ひ入れたまはん。願はくは榮光世々限りなく彼にあらん事を、アァメン。」 Ⅱテモテ4:18 大正文語訳聖書
「主はわたしを、すべての悪のわざから助け出し、天にある御国に救い入れて下さるであろう。栄光が永遠から永遠にわたって主にあるように、アァメン。」 口語訳聖書
「派手と地味」
夫婦には、妻が派手なつき合いを好めば、夫はすべからく地味にしたがる傾向を持つことがある。そして、夫が地味にすればするほど、妻のつき合いは派手になっていく。一方がこだわれば、他方はその分、対立する性格を強くするのである。妻の派手なつき合いを止めさせたければ、それに対抗してことさらに地味にするのを止めることだ。そうすれば、彼女はそれ以上に派手にする必要がなくなるからである。愛は相手と良くも悪しくも、心を合わせる。
(心のデボーション5113)
心のデボーション5114
「むしろ愛の故によりて汝にねがふ。既に年老いて今はキリスト・イエスの囚人となれる我パウロ、」 ピレモン1:9 大正文語訳聖書
「むしろ、愛のゆえにお願いする。すでに老年になり、今またキリスト・イエスの囚人となっているこのパウロが、」 口語訳聖書
「あなたを負い」
パウロは「すでに年老いた」が、なお「キリスト・イエスの囚人」として歩んだ。(ピレモン1:9) 神は「あなたがたの年老いるまで変らず」、「白髪となるまで」、「あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」からである。(イザヤ46:4)
(心のデボーション5114)
心のデボーション5115
「わが斯くも汝ら衆を思ふは當然の事なり、我が縲絏にある時にも、福音を辯明して之を堅うする時にも、汝らは皆われと共に恩惠に與るによりて、我が心にあればなり。」 ピリピ1:7 大正文語訳聖書
「わたしが、あなたがた一同のために、そう考えるのは当然である。それは、わたしが獄に捕われている時にも、福音を弁明し立証する時にも、あなたがたをみな、共に恵みにあずかる者として、わたしの心に深く留めているからである。」
「恵みの共有」
「獄に捕われている時」にも「福音を弁明し立証する時」にも、それぞれの時に、それぞれの恵みがある。この恵みは、信じる者の間で互いに共有される神の祝福である。多くの信仰者が見出し、経験された神の恵みは、すべてのキリスト者に共有され、それによって、さらに恵みの深みが現れてくる。
(心のデボーション5115)
心のデボーション5116
「救主なる神はエジプトにて大なるわざをなし」 詩篇106:21 明治元訳聖書
「彼らは、エジプトで大いなる事をなし、ハムの地でくすしきみわざをなし、紅海のほとりで恐るべき事をなされた救主なる神を忘れた。」 口語訳聖書
「あなたはわたしの僕」
イスラエルの民は荒野で、「エジプトで大いなる事をなし、ハムの地でくすしきみわざをなし、紅海のほとりで恐るべき事をなされた救主なる神を忘れた」。(詩篇106:21) 彼らはエジプトから救い出された救い主なる神を忘れ、「大いなる力を見失った。しかし、神は「イスラエルよ、わたしはあなたを忘れない」と言われる。(イザヤ44:21)
(心のデボーション5116)
心のデボーション5117
「謙遜者はこれを見てよろこべり 神をしたふ者よなんぢらの心はいくべし」 詩篇69:32 明治元訳聖書
「へりくだる者は、これを見て喜べ。神を求める者よ、あなたがたの心を生きかえらせよ。」 口語訳聖書
「貧しき心」
フランシスコ会訳は「心を生かせ」を「心に喜びあれ」と訳す。ここでいう「心」とは「貧しき心」である。「貧しき心」だけが、主とその御力を尋ね求める。(Ⅰ歴代16:11) 「貧しき心」はまた、賛美する心である。主を尋ね求める人は、主が自分を決して見捨てないと知って喜び、賛美する。貧しき心に喜びあれ 貧しき心に賛美あれ、貧しき心にいのちあれ。(詩篇22:26)
(心のデボーション5117)
心のデボーション5118
「神の御意により、キリスト・イエスにある生命の約束に循ひて、キリスト・イエスの使徒になれるパウロ、」 Ⅱテモテ1:1 大正文語訳聖書
「神の御旨により、キリスト・イエスにあるいのちの約束によって立てられたキリスト・イエスの使徒パウロから、」 口語訳聖書
「聖書を調べ」
「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べている」。しかし、「あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」。(ヨハネ5:39-40) 「聖書」は「イエス・キリストについてあかしをする、「キリスト・イエスにあるいのちの約束」の書である。(ヨハネ5:39 Ⅱテモテ1:1)
(心のデボーション5118)
心のデボーション5119
「なんぢは祈るとき、己が部屋にいり、戸を閉ぢて隱れたるに在す汝の父に祈れ。さらば隱れたるに見給ふなんぢの父は報い給はん」 マタイ6:6 大正文語訳聖書
「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」 口語訳聖書
「老いる」
老いるということは「monaste-rion モナステリオン 独りぼっちになる場所」「奥まった自分の部屋 tameios タメイオス」を持つようになることである。そこで神がじっと見つめられる「隠れたこと」をじっと見よう。
藍染めは藍を立てて紺色に染める。もう染まらなくなった瓶に最後の糸を浸すと、淡くそれは美しい青が染まる、染色家はその青を「瓶覗き」という。老いにはもう染まらなくなった瓶に浸す「最後の白い糸」がある。「monaste-rion モナステリオン 独ぼっちになる場所」「奥まった自分の部屋 tameios タメイオス」は「瓶覗き」をする場である。最も美しい青に染めるために最後の糸の束を瓶の底に浸すのである。
「monaste-rion モナステリオン 独ぼっちになる場所」「奥まった自分の部屋 tameios タメイオス」のない老後はさみしい。
(心のデボーション5119)
心のデボーション5120
「汝らは恩惠により、信仰によりて救はれたり、是おのれに由るにあらず、神の賜物なり。」 エペソ2:8 大正文語訳聖書
「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」 口語訳聖書
「信仰の賜物」
信仰は「あなたがた自身から出たものではなく」、「神の賜物である」。(エペソ2:8) 「賜物χάρις」は、「受ける資格ない者に対する彼〔神〕の愛顧と祝福」(祥訳聖書いのちのことば社)である。「賜物」の理由は神御自身の内にある。「信仰の成長」もまた「神の賜物τῇ χάριτί」である。
(心のデボーション5120)
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