心のデボーション5091
「荒野に呼はる者の聲す、「主の道を備へ、その路すぢを直くせよ」』 と録されたる如く、」 マルコ1:3 大正文語訳聖書
「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と書いてあるように、」 口語訳聖書
「聖なる婚礼」
バプテスマのヨハネは「主の道を備えよ、その道筋をまっすぐに」した。(マルコ1:3) 「備えるἑτοιμάζω」は「準備する、調える、仕度する」の意。バプテスマのヨハネはイエスを見て、「花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ」と言い、「この喜びはわたしに満ち足りている」と叫んだ。(ヨハネ3:29)来るべきメシア(イエス・キリスト)は「婚礼に向かう花嫁」であり、ヨハネは婚礼を調える友人である。花婿が迎える花嫁は誰か? パウロは「教会」であると教えた。(エペソ5:22-33)ヨハネが調えたのは、イエスと教会との聖なる婚礼であった。
(心のデボーション5091)
心のデボーション5092
「汝殺すなかれ」 出エジプト20:13 明治元訳聖書
「あなたは殺してはならない。」 口語訳聖書
「良い医者」
「医者というものはね、患者さんを何人も死なさないと、良い医者にはなれないんですよ」と語った医師がいた。患者さんを「何人も死なす」という悲しみを通過しないと、人を生かすところにたどりつけないのかもしれない。この場合「人を死なす」ことと、「人を殺す」ことは同じではない。「人を死なす」ことはあっても、「人を殺す」ことをしてはいけないと思う。私は「医者」を「牧師」と置き換えて、その意味を考えている。
(心のデボーション5092)
心のデボーション5093
「我も凡ての事を最初より詳細に推し尋ねたれば、」 ルカ1:3 大正文語訳聖書
「テオピロ閣下よ、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、ここに、それを順序正しく書きつづって、閣下に献じることにしました。」 口語訳聖書
「順序正しく書きつづる」
ルカは「わたしたちの間に成就された出来事を」、「順序正しく書きつづる」。(ルカ1:3) ルカが書き綴ったのは「神のおおいなる御業」である。神は「ただひとり大いなるくすしきみわざ(新改訳聖書「大いなる不思議」、新共同訳聖書「驚くべき大きな御業」、フランシスコ会訳聖書「大いなる不思議な業」)をなされる」御方である。(詩篇136:4) 神の「くすしきみわざと、われらを思うみおもいとは多くて、くらべうるものはな」、「これを語り述べようとしても多くて数えることはできない」、(詩篇40:5) 「順序正しく書きつづる」それ自体が「神の不思議な御業」である。
(心のデボーション5093)
心のデボーション5094
「隠微たる事は我らの神ヱホバに屬する者なりまた顯露されたる事は我らと我らの子孫に屬し我らをしてこの律法の諸の言を行はしむる者なり」 申命29:29 明治元訳聖書
「隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。」 口語訳聖書
「幾千もの涙」
幾百、幾千もの祈りをささげても、問題が解決されないことがある。それは、神が解決を隠されている問題かもしれない。そのときは、神が現わされるまで、何もしないのが「解決」である。そのようにしながら、幾百、幾千もの祈りと涙を流しつづける。そのためにも、解決は隠されているのかもしれない。真の問題といえるものは、ほとんど、このようである。
(心のデボーション5094)
心のデボーション5095
「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。」 ヨハネ1:1 大正文語訳聖書
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」 口語訳聖書
「神と共にあった」
「言は神と共にあったὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν」。(ヨハネ1:1)「πρὸς τὸν θεόν神と共に」は「πρὸς~に向かって、常に交わり、行き来し」に導かれる。一方、マタイ1:23「神我らと共にしますμεθ᾽ ἡμῶν ὁ θεός」は「μετά真ん中に、~の間に」に導かれる。「神と共に、神にむかって、常に行き来される」お方が、私たちの「真ん中に、私たちの間」に居られる。
(心のデボーション5095)
心のデボーション5096
「その選び給へる使徒たちに、聖靈によりて命じたるのち、擧げられ給ひし日に至るまでの事を記せり。」 使徒1:2 大正文語訳聖書
「お選びになった使徒たちに、聖霊によって命じたのち、天に上げられた日までのことを、ことごとくしるした。」 口語訳聖書
「神の選び」
「お選びになった使徒たち」。「お選びになったἐκλέγω」は「引っこ抜く、選び出す」の意。漢字「選」の「巽」は「𠨎(二人がひざまずいて並ぶ)+共(台の形)」で、「台の上に人が並ぶ」から「いくつかのものの中から意中のものを取り上げる」、「選ぶ」。神は「多く」の中から「私」を「引っこ抜かれる」。その理由は神御自身の内にしかない。
(心のデボーション5096)
心のデボーション5097
「人はその聰明にしたがひて譽られ 心の悖れる者は藐めらる」 箴言12:8 明治元訳聖書
「人はその悟りにしたがって、ほめられ、心のねじけた者は、卑しめられる。」 口語訳聖書
「アテの声」
山の斜面などにはえて、日差しのかげんで一部が固くなってしまった木をアテと呼ぶそうである。 内にゆがみを抱えた木で、柱にも板にもならない。自然は、ゆがみもねじれもそのままに成長する。ねじれを内に抱えることと、「心がねじける」は同じではない。ねじれやゆがみを嫌がるのが「ねじけた心」である。山でアテを見つけたら、そっと手をそえる。アテの声が聴けるような気がする。
(心のデボーション5097)
心のデボーション5098
「御子は肉によれば、ダビデの裔より生れ、」 ロマ1:3 大正文語訳聖書
「御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、」 口語訳聖書
「肉となられたイエスを告白する霊」
主イエスは、「肉によればκατὰ σάρκα」、「ダビデの子孫から」お生れになった。(ロマ1:3) 「肉σάρξ」は「人間、肉体、血統」の意。神の子であるイエスが人間となられた。しかし、「彼〔イエス・キリスト〕は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった」。(イザヤ)「彼は自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができると共に、その弱さのゆえに、民のためだけではなく自分自身のためにも、罪についてささげものをしなければならないのである」。(へブル5:2-3)
このイエスを、「肉体をとってこられた」と「告白する霊」は、「すべて神から出ている(神から来た)」のであり、 「イエスを告白しない霊」は、「すべて神から出ているものではなく」、「反キリストの霊」である。(Ⅰヨハネ4:2-3)
(心のデボーション5098)
心のデボーション5099
「なんぢは祈るとき、己が部屋にいり、戸を閉ぢて隱れたるに在す汝の父に祈れ。さらば隱れたるに見給ふなんぢの父は報い給はん」 マタイ6:6 大正文語訳聖書
「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」 口語訳聖書
「独りぼっちになる場所」
「monaste-rion モナステリオン(修道院)」の「monas モナス」は「独りぼっちの」で、「独りぼっちになる場所」のこと。「奥まった自分の部屋ταμεῖον」である。神がいますのは、人がいまだ認識し得ない、目に隠された「今、ここ」の事柄の中である。神の在すのは、人の至るべきところ、すなわち「今、ここ」である。神の在すところに導かれて人は己の存在に接近する。
(心のデボーション5099)
心のデボーション5100
「神その旨により召てイエス・キリストの使徒となし給へるパウロ及び兄弟ソステネ」 Ⅰコリント1:1 大正文語訳聖書
「神の御旨により召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、」 口語訳聖書
「御旨により召され」
人は「神の御旨により召されて」、「キリスト・イエス」に来る。(Ⅰコリント1:1) 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた」、「それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」。(ヨハネ15:16)
「召しκλητός」は「招待された、歓迎された、選び出された、呼ばれた」の意。
(心のデボーション5100)
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