心のデボーション508

デボーション1
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心のデボーション5071

「我らの救主なる神と我らの希望なるキリスト・イエスとの命によりて、キリスト・イエスの使徒となれるパウロ、」 Ⅰテモテ1:1  大正文語訳聖書

「わたしたちの救主なる神と、わたしたちの望みであるキリスト・イエスとの任命によるキリスト・イエスの使徒パウロから、」 口語訳聖書

 「わたしたちの望み」

「救い主なる神」は「イエス・キリスト」において、「わたしたちの望み」である。「望み」は「生ける神」への「生ける望み」である。(エペソ4:10) 「正しい者の望みは喜びに終る」。(箴言10:28)

(心のデボーション5071)

心のデボーション5072

「なんぢの友と汝の父の友とを棄るなかれ なんぢ患難にあふ日に兄弟の家にいることなかれ 親しき隣は疏き兄弟に愈れり」 箴言27:9  大正文語訳聖書

「あなたの友、あなたの父の友を捨てるな、あなたが悩みにあう日には兄弟の家に行くな、近い隣り人は遠くにいる兄弟にまさる。」 口語訳聖書

 「合同演奏効果」

五百人の聴衆を集める演奏家が四百人を集める演奏家と音楽会をしたら九百人の聴衆が集まるかといえば、そうとはいえないのだそうである。それどころか互いの聴衆も下回って三百人しか集まらないこともまれではないという。協力することが必ずしもたし算にならないのを合同演奏効果と呼ぶ。しかし、あきらめないことだ。合同演奏ので、三百人に減る友がいて、それで自分に五百人が集まってくれるのかもしれない。

(心のデボーション5072)

心のデボーション5073

「神の御意により、キリスト・イエスにある生命の約束に循ひて、キリスト・イエスの使徒になれるパウロ、」 Ⅱテモテ1:1  大正文語訳聖書

「神の御旨により、キリスト・イエスにあるいのちの約束によって立てられたキリスト・イエスの使徒パウロから、」 口語訳聖書

 「いのちの約束」

「キリスト・イエスにあるいのちの約束によってκατ᾽ ἐπαγγελίαν ζωῆς τῆς ἐν χριστῶ ἰησοῦ」。(Ⅱテモテ1:1) 「約束ἐπαγγελίαν」は「告知、約束」の意。「告知された約束」である。「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っている」との約束である。(ヨハネ5:24)

(心のデボーション5073)

心のデボーション5074

「『「わが家は祈の家と稱へらるべし」と録されたるに、汝らは之を強盜の巣となす』」 マタイ21:13  大正文語訳聖書

「そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」 口語訳聖書

 「強盗の巣」

病める子どもは病める家族から出ると言われる。家族関係が病んでいて、それを子どもが背負わされているのであるという。しかも、その家族は問題の子を除けば極めて健康的に暮らしていて、病んでいるのは自分達なのだという自覚がないのが普通である。しかし、よく見れば、その家族には祈りが欠け、ダイナミックに変化していく家族としてのエネルギーに欠けている。子どもはこの家を「盗み、殺し、姦淫し、偽って誓う」強盗の巣と見抜いているのだろうか。

(心のデボーション5074)

心のデボーション5075

「神の僕またイエス・キリストの使徒パウロ――我が使徒となれるは、永遠の生命の望に基きて神の選民の信仰を堅うし、また彼らを敬虔にかなふ眞理を知る知識に至らしめん爲なり。」 テトス1:1  大正文語訳聖書

「神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから――わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた者たちの信仰を強め、また、信心にかなう真理の知識を彼らに得させるためであり、」 口語訳聖書

 「神の僕」

「アロンとその子ら」は「燔祭の壇と香の祭壇の上にささげることをなし、また至聖所のすべてのわざをなし、かつイスラエルのためにあがないをなした」。(Ⅰ歴代6:49) 「神の僕δοῦλος θεοῦ」は、すべての人に「神に選ばれた者たちの信仰を強め、また、信心にかなう真理の知識を彼らに得させ」、「あがないの業」をなすために選ばれた人々であった。

(心のデボーション5075)

心のデボーション5076

「その人々忠實に操作けりその監督者はメラリの子孫たるヤハテ、オバデヤおよびコハテの子孫たるゼカリヤ、メシユラムなどのレビ人なりき彼等すなはち之を主どる又樂器を弄ぶに精巧なるレビ人凡て之に伴なふ」 Ⅱ歴代34:12  明治元訳聖書

「その人々は忠実に仕事をした。その監督者はメラリの子孫であるレビびとヤハテとオバデヤ、およびコハテびとの子孫であるゼカリヤとメシュラムであって、工事をつかさどった。また楽器に巧みなレビびとがこれに伴った。」 口語訳聖書

 「覚悟と工夫」

江戸時代の「百姓伝記」に「一年中なすことわざを、初春の内に覚悟・工夫せざれば、極月に至て万事指詰り、難儀する」とある。(「百姓伝記」古島敏夫校注 岩波文庫1977/4)それは月毎、日毎に及ぶ「人間一生身持の事」である。事のはじめに「なすべきことわさ」への覚悟・工夫を持つべきである。たいていの失敗は覚悟・工夫の貧しさにある。

(心のデボーション5076)

心のデボーション5077

「されど我があたふる水を飮む者は、永遠に渇くことなし。わが與ふる水は彼の中にて泉となり、永遠の生命の水湧きいづべし」 ヨハネ4:14  大正文語訳聖書

「しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」 口語訳聖書

 「生ける水」

男性の夢に灯をともそうとする女性がいる。しかし、このタイプの女性に幸せな人が少ないのはどうしてだろうか。自分の心がからっぽで、相手の中でその渇きをいやそうとするからではないか。他人の夢に巻き込まれるだけでは、さみしさはつのるばかりである。イエスの「生ける水」は自身の内にある。ただ、飲むことをしないので渇くのである。

(心のデボーション5077)

心のデボーション5078

「わが軛は易く、わが荷は輕ければなり」 マタイ11:30  大正文語訳聖書

「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」 口語訳聖書

 「重荷」

「天路歴程」の「基督者」は「手に一冊の書物を持ち、背には大きな荷を負って」、救いを求めて旅に出る。「重荷」は彼の手にある「一冊の書物」を読んだことからくる。やがて「基督者」は進むべき「細き道」に導かれるが、細き道に通じる門で「好意者」に「背負っている重荷」を下ろすのを手伝ってくれと願うと、彼は「君の重荷については、救いの場所に来るまでは不平を言わずに背負っておいでなさい、そこへ行けば自然と背中から落ちますから」と助言する。

だが、基督者の背負う「重荷」は「背中から自然に滑り落ちるのだろうか? 主イエスは「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われる。(マタイ11:30)

(心のデボーション5078)

心のデボーション5079

「なんぢら祈るとき、僞善者の如くあらざれ。彼らは人に顯さんとて、會堂や大路の角に立ちて祈ることを好む。誠に汝らに告ぐ、かれらは既にその報を得たり」 マタイ6:5 大正文語訳聖書

「また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。」 口語訳聖書

 「礼拝で祈る」

礼拝で祈るとき、人は誰でも、いくらかは「偽善者」である。だが、偽善の罪は人前で告白すべきものではない。そんなことをすれば、偽善の偽善を犯すことになる。

(心のデボーション5079)

心のデボーション5080

「ヨハネの弟子とパリサイ人とは、斷食しゐたり。人々イエスに來りて言ふ『なにゆゑヨハネの弟子とパリサイ人の弟子とは斷食して、汝の弟子は斷食せぬか』」 マルコ2:18  大正文語訳聖書

「ヨハネの弟子とパリサイ人とは、断食をしていた。そこで人々がきて、イエスに言った、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。」 口語訳聖書

 「パリサイ人の義」

「パリサイ人Φαρισαῖος」はφαρισαῖοι「分離者、独立者」からきたユダヤ教の有力な一派で、自身を聖なる者とし、人と違った服装をし、異なった生活様式をもっていた。律法を厳格に守り、神殿を中心に活動する祭司に対して、パリサイ人は会堂に集まり、民衆に律法を教えた。「パリサイ人の義」は偽善にまみれていた。しかし、主イエスは「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない」と言われた。(マタイ5:20)

(心のデボーション5080)

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