心のデボーション506

デボーション1
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心のデボーション5051

「我はわが愛する者につき わが愛する者はわれにつく 彼は百合花の中にてその群を牧ふ」 雅歌6:3  明治元訳聖書

「わたしはわが愛する人のもの、わが愛する者はわたしのものです。彼はゆりの花の中で、その群れを飼っています。」 口語訳聖書

 「アガパンサス」

結婚記念日に花を贈るならアガパンサスはいいかもしれない。アガパンサス(Agapanthus)は和名ムラサキクンシラン(紫君子蘭)でユリ科の花である。Agapanthusの語源はギリシャ語「ἀγάπη神聖な愛+ἄνθος花」で、花言葉は「恋の訪れ」、「恋の季節」、「誠実な愛」だ。

(心のデボーション5051)

心のデボーション5052

「非禮を行はず、己の利を求めず、憤ほらず、人の惡を念はず、」 Ⅰコリント13:5  大正文語訳聖書

「不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。」 口語訳聖書

 「愛は怒らず」

相手が怒っているのはわかっても、その原因が自分にあることは、なかなかわからないものだ。相手は怒っている医。しかし、怒っているのは自分ではなく相手なのだから、悪いのは相手で、自分ではない。そこで、こちらはますます冷静になり、相手はその態度にますます怒る。怒らないのが愛というよりも、怒りを自分に引き受け、他人に移さないのが愛という意味ではないか。

(心のデボーション5052)

心のデボーション5053

「その選び給へる使徒たちに、聖靈によりて命じたるのち、擧げられ給ひし日に至るまでの事を記せり。」 使徒1:2  大正文語訳聖書

「お選びになった使徒たちに、聖霊によって命じたのち、天に上げられた日までのことを、ことごとくしるした。」 口語訳聖書

 「その選び給へる使徒たち」

ヨハネは黙示録の幻に、「大きな高い山に連れて行かれ」、御使にいより、御霊に感じたまま」に、「聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見た」。それには「大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった」。(黙示21:10-14) 

主イエスの「12使徒」は新しい神の都エルサレムの「12の門」の土台となって、「入ると出ずる」を守る。

(心のデボーション5053)

心のデボーション5054

「是故に今の時は賢き者默す 是惡き時なればなり」 アモス5:13  明治元訳聖書

「それゆえ、このような時には賢い者は沈黙する、これは悪い時だからである。」 口語訳聖書

 「沈黙」

沈黙して悪をやり過ごすのは、いわゆる、「賢い人」がよく使う手である。そして、悪をここぞと言い立て、沈黙することができないのも、また、そのような「賢い人」だ。本当に沈黙できる人は、いつも目を開いて時代の悪を見つめ、耳をすませて、そのはかりごとを聴き、口を開いて、正しく語る。人に沈黙を破らせるのは愛である。  本当に賢い人はおろかにもなれる。悪に口を閉ざす「賢さ」よりも、口を閉じていられない愛の「おろかさ」を求めたい。

(心のデボーション5054)

心のデボーション5055

「神の御意により召されてイエス・キリストの使徒となれるパウロ及び兄弟ソステネ、」 Ⅰコリント1:1  大正文語訳聖書

「神の御旨により召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、」 口語訳聖書

 「神の御旨により」

「神の御旨により、喜びをもってあなたがたの所に行き」。(ロマ15:32) 「神の御旨」には「喜び」が伴う。喜びをもって神に従うことも神からの賜物である。

(心のデボーション5055)

心のデボーション5056

「神の御意によりてイエス・キリストの使徒となれるパウロ及び兄弟テモテ、書をコリントに在る神の教會、ならびにアカヤ全國に在る凡ての聖徒に贈る。」 Ⅱコリント1:1  大正文語訳聖書

「神の御旨によりキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟テモテとから、コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ。」 口語訳聖書

 「信仰の絆」

パウロはテモテを様々なことばで呼ぶ。「兄弟テモテ」(Ⅱコリント1:1)、「同労者テモテ」(ロマ16:21)、「キリスト・イエスの僕」(ピリピ1:1)、「私と同じ心」(ピリピ2:20新改訳聖書)、「信仰によるわたしの真実な子テモテ」(Ⅰテモテ1:1)、「愛する子テモテ」(Ⅱテモテ1:2)。パウロとテモテは信仰の深い絆に結ばれていた。

(心のデボーション5056)

心のデボーション5057

「愛には懼なし、全き愛は懼を除く、懼には苦難あればなり。懼るる者は、愛いまだ全からず。」 Ⅰヨハネ4:18  大正文語訳聖書

「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。」 口語訳聖書

 「父親に愛されなかった娘」

父親に愛されなかった娘は、どこか冷淡なところのある男性に魅かれる傾向があるという。そして「私が愛せば、この人は変わる」と考えて、どんなに冷たくされても、その関係にしがみつこうとする。父親との不幸で破滅的な関係を、今度こそ成功させようとしているのかもしれない。この愛が目指すのは不幸だった自分の救済である。

しかし、心の冷たい男性にそれを求めても充たされることはない。「愛されなかった自分」を責めることから自分を解放してくれる愛に出会わなければならないのであろう。

(心のデボーション5057)

心のデボーション5058

「人よりに非ず、人に由るにも非ず、イエス・キリスト及び之を死人の中より甦へらせ給ひし父なる神に由りて使徒となれるパウロ、」 ガラテヤ1:1  大正文語訳聖書

「人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ、」 口語訳聖書

 「死人の中から」

パウロが「イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神」というとき、「死人の中にいた自分がイエス・キリストにより、よみがえった」との認識が告白されている。パウロはかつて「主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませていた」(使徒9:1)「息をはずませるἐμπνέω」は「荒い息をする」の意。パウロはそれを「死人の中にいた自分」という。「死νεκρός」は「生きていない、いのちのない」で、どれほど生き生きと「荒い息」で行動していても、「生きている」とは言えなかったのである。パウロがそれに気づいたのは「いのちなるイエス・キリスト」(ヨハネ1:4)にであってからであった。

(心のデボーション5058)

心のデボーション5059

「なんぢら祈るとき、僞善者の如くあらざれ。彼らは人に顯さんとて、會堂や大路の角に立ちて祈ることを好む。誠に汝らに告ぐ、かれらは既にその報を得たり」 マタイ6:5 大正文語訳聖書

「また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。」 口語訳聖書

 「街角で」

なるほど、彼らの立つのは「街角」で、街角の「隅、人目につかない所、隅っこ」で慎ましやかに立ち止まる。しかし、彼らの心は街角(γωνία)のど真ん中にいる。 

(心のデボーション5059)

心のデボーション5060

「神の御意によりてキリスト・イエスの使徒となれるパウロ、書をエペソに居る聖徒、キリストに在りて忠實なる者に贈る。」 エペソ1:1  大正文語訳聖書

「神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロから、エペソにいる、キリスト・イエスにあって忠実な聖徒たちへ。」 口語訳聖書

 「キリスト・イエスにあって忠実」

パウロが教会に求める「忠実」は、「キリスト・イエスにある忠実πιστοῖς ἐν χριστῶ ἰησοῦ·」である。パウロが期待するのは「キリスト・イエスの中にあり、キリスト・イエスへの忠実」である。それを欠く忠実は信仰の実を結ぶことはない。

(心のデボーション5060)

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