心のデボーション5021
「預言者イザヤの書に、 『視よ、我なんぢの顏の前に、わが使を遣す、 彼なんぢの道を設くべし。』」 マルコ1:2 大正文語訳聖書
「預言者イザヤの書に、「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。
「主の道」
神はイエスを遣わされる前に、「使いἄγγελος(angel, messenger)」を遣わし、「道を整えさせ」られた。「整えるκατασκευάζω」は「κατά完全に+σκευάζω備える」からなり、「完全に準備する」こと。主の行かれる道を、「整える奉仕」がある。溝を埋め、岩を削り、平らかな「主の道」を設ける働きである。
(心のデボーション5021)
心のデボーション5022
「或祭司たまたま此の途より下り、之を見てかなたを過ぎ往けり。」 ルカ10:31 大正文語訳聖書
「するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。」 口語訳聖書
「内なる悪」
悪を見ても、その「反対側を通り過ぎる」ことが悪に加担することだとすれば、私たちはみなその罪を犯している。その人は善をおこなう機会があっても、その「反対側を通り過ぎる(ἀντιπαρέρχομαι)」。そして、「みんなも通り過ぎたではないか」という。悪は内にあり、見たか、見なかったかの問題ではない。内なる悪を見ているものだけが、道に倒れている人を見て、サマリア人のように立ち止まり、手をのばす。ἀντιπαρέρχομαιは「反対の方向へ通り過ぎる」の意。
(心のデボーション5022)
心のデボーション5023
「御言の役者となりたる人々の、我らに傳へし其のままを書き列ねんと、手を著けし者あまたある故に、」 ルカ1:2 大正文語訳聖書
「御言に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き連ねようと、多くの人が手を着けましたが、」 口語訳聖書
「御言葉の下僕」
「御言に仕えた人々ὑπηρέτης」は「御言葉の召使(下僕)」の意。大正文語訳聖書「御言の役者」、新共同訳聖書「御言葉のために働いた人々」、バルバロ訳聖書「みことばの奉仕者」、永井直治訳聖書「使丁(しちやう)なりし彼等」。
(心のデボーション5023)
心のデボーション5024
「又かれの子供を打ち殺さん、斯くてもろもろの教會は、わが人の腎と心とを究むる者なるを知るべし、我は汝等おのおのの行爲に隨ひて報いん。」 黙示2:23 大正文語訳聖書
「また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。」 口語訳聖書
「思いを探る者」
神は人の思いと心を探られる。「神は人の奥底を証しする方、心の極みを見張る力、舌の語るところに耳をそばだてる方である。τῶν νεφρῶν αὐτοῦ μάρτυς ὁ θεὸς καὶ τῆς καρδίας αὐτοῦ ἐπίσκοπος ἀληθὴς καὶ τῆς γλώσσης ἀκουστής 」(旧約聖書外典知恵の書1:6(フランシスコ会訳)「思いνέφρος」の直訳は「腎臓」である。大正文語訳聖書は「人の腎(むらと)」と訳す。当時、腎臓は感情の座と考えられていた。神は人の思考ばかりでなく、その感情をも探られる。感情は、時には土石流のように、何もかも破壊し、呑みつくす。そんなときにも、神は私の感情の源にとどいてくださり、叫ぶ声を聞いてくださる。ですから、私は神の前で泣いたり、怒ったりするのである。
(心のデボーション5024)
心のデボーション5025
「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。」 ヨハネ1:1
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」 口語訳聖書
「事のはじめ」
「初めに言があったἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος」。(ヨハネ1:1) 「事のはじめ」は常に「神のことば」による。「神のことば」は事をはじめ、事を成し遂げる力」でり、永続する働きである。
(心のデボーション5025)
心のデボーション5026
「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。」 ヨハネ1:1
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」 口語訳聖書
「言は神と共にあった」
「言は神と共にあったὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν」。(ヨハネ1:1) 聖書を読むとき、一つ一つの御言葉に「神が居ます」ことを感受しなければならない。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない」。(Ⅰコリント12:3)
(心のデボーション5026)
心のデボーション5027
「銀の如くこれを探り 秘れたる寳の如くこれを尋ねば」 箴言2:4 明治元訳聖書
「銀を求めるように、これを求め、かくれた宝を尋ねるように、これを尋ねるならば、」 口語訳聖書
「隠された宝」
良いものを身につけたいという欲求とブランドにこだわる心理は、必ずしも同じではない。ブランドはそれを持つことで、ある社会的評価まで手に入れられるという錯角を利用した商品である。常に自分がベストでなければ気のすまない人が、ブランドによって自分をそこに位置づけようとする。本当に価値あるものは、人の内にある。しかし、それは隠されているのが普通で、苦労して掘り出さなければならないのである。
(心のデボーション5027)
心のデボーション5028
「テオピロよ、我さきに前の書をつくりて、凡そイエスの行ひはじめ教へはじめ給ひしより、」 使徒1:1 大正文語訳聖書
「テオピロよ、わたしは先に第一巻を著わして、イエスが行い、また教えはじめてから、」 口語訳聖書
「福音の全体」
ルカは「先に第一巻〔ルカの福音書〕を著わし」、続いて「使徒の働き」を「第二巻」としてあらわず。これも「イエスが行い、また教え」に含まれる事柄であった。福音は、イエス・キリストの救いに導き、その救いはイエス・キリストの働きの全体を成し遂げてゆく。
(心のデボーション5028)
心のデボーション5029
「是はその施濟(ほどこし)の隱れん爲なり。さらば隱れたるに見たまふ汝の父は報い給はん」 マタイ6:4 大正文語訳聖書
「それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」 口語訳聖書
「隠れたふるまい」
「ふるまい」というものがある。そこには「良きふるまい」と「悪しきふるまい」が共に存在する。しかし、神は、「隠れたふるまいκρυπτός」を凝視され、その支払いをなさる。「κρυπτός」は「覆い隠された、埋められた、埋葬された」の意である。
(心のデボーション5029)
心のデボーション5030
「キリスト・イエスの僕、召されて使徒となり、神の福音のために選び別たれたるパウロ――」 ロマ1:1 大正文語訳聖書
「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから――」 口語訳聖書
「イエス・キリストの奴僕」
永井直治訳聖書「パウロ、イエス・キリストの奴僕、召されたる使徒、神の福音のために別たれたる者」は本節のギリシャ語訳に近い。パウロは自分を、まず「イエス・キリストの奴僕(δοῦλος「僕、奴隷」)」とし、それに「召されたる使徒」、「神の福音のために別たれたる者」が続く。最初に置かれる「イエス・キリストの奴僕」が信仰の基である。他はそれに自ずと従う使命であった。
(心のデボーション5030)
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