心のデボーション5001
「汝等もとは惡しき業を行ひて神に遠ざかり、心にて其の敵となりし」 コロサイ1:21 大正文語訳聖書
「あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。」 口語訳聖書
「神の異邦人」
「神から離れἀπαλλοτριόω」は「遠ざかる、他国人である」の意。「悪い行いτοῖς ἔργοις τοῖς πονηροῖς」とは「不信仰」によって「きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまった」者で、「神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定する」、「忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である」(テトス1:15-16)。彼らは「キリストを知らず、神の国の国籍がなく「神から遠ざかった者(ἀπαλλοτριόω)、神の異邦人である。」
(心のデボーション5001)
心のデボーション5002
「又曰けるは去來邑と塔とを建て其塔の頂を天にいたらしめん斯して我等名を揚て全地の表面に散ることを免れんと」 創世11:4 明治元訳聖書
「彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」 口語訳聖書
「これより先に行くな」
海の男はジブラルタル海峡を「ヘラクレスの柱」と呼び、「これより先に行くな」と恐れていた。1492年、コロンブスの艦隊はジブラルタルから大西洋に乗り出し、カリブ海のワイトニング島に到達した。それ以来、人は「さらに遠く」を目指してきた。未知なる世界への人間の前進は終わらない。しかし、現代、世界は再び「これより先に行くな」という声をきかなければならないのではないか。崩されたバベルの塔は再建されてはならない。
(心のデボーション5002)
心のデボーション5003
「この言をききて、若者悲しみつつ去りぬ。大なる資産を有てる故なり。」 マタイ19:22 大正文語訳聖書
「この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。」 口語訳聖書
「富める老年」
ギリシャ語で「青年νεανίσκος」は「活発で、素晴らしい、若さ」を言いする。漢字の「青年」の「青」は五行思想の「春の色」から来て「青春」の語もある。(夏は赤、秋は白、冬は黒)いのちの萌え出る素晴らしい日である。しかし、この「富める青年」はすでに「捨てがたい大いなる資産」を有し、真理のためにすべてをかけることができず、そのいのちは活力を失い、すでに「老年」であった。
(心のデボーション5003)
心のデボーション5004
「人に與へよ、さらば汝らも與へられん。人は量をよくし、押し入れ、搖り入れ、溢るるまでにして、汝らの懷中に入れん。汝等おのが量る量にて量らるべし」 ルカ6:38 大正文語訳聖書
「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」 口語訳聖書
「与えなさい」
与えている(δίδωμι)のに何も返ってくるものがなければ空しくもなる。そこで、もっと与えようとし、ついには、自分が空っぽになってしまうこともある。それは、返ってくるもののない空しさを埋めようとして与えているからではないか。与えているようで、実は相手に要求しているのである。「与える」には「与え切る」ことが大切ではないか。そのとき、帰るのが無くても、何かが「自分も与えられる」。
(心のデボーション5004)
心のデボーション5005
「彼を本とし全身は凡ての節々の助にて整ひ、かつ聯り、肢體おのおの量に應じて働くにより、その體成長し、自ら愛によりて建てらるるなり」 エペソ4:16 大正文語訳聖書
「また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。」 口語訳聖書
「ヒナ混ぜ」
カルガモの子が母鳥のあとをついて一列に泳ぐ。ところが時には他の群れについていったり、いつの間にか他の群れから移ってくるのがいたりする。母鳥もとやかく言わず、我が子のように育てるという。これを「ヒナ混ぜ」といい、ガンカモ類によく見られるという。人の子も、成長すると親から離れ、一種の「ヒナ混ぜ」を経験する子もいる。そのようにして「内なる親」に出合い、自ら「親」への歩みを始めるのかもしれない。
(心のデボーション5005)
心のデボーション5006
「彼また我に言たまひけるは人の子よ汝獲るところの者を食へ此卷物を食ひ往てイスラエルの家に告よ」 エゼキエル3:1 明治元訳聖書
「彼はわたしに言われた。「人の子よ、あなたに与えられたものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」 口語訳聖書
「トーラーの王冠」
ユダヤ教には、羊皮紙に書かれたトーラーのトーラースクロールの上部に「王冠」の飾りを被せる習慣がある。
「王冠」は人間が被るものではなく、それに相応しいのは「神のことば」であるという意味であるという。アシュケナジー系の古いトーラー写本のケースには銀製の王冠や胸当てが添えられ、トーラーの尊厳を象徴する。
(心のデボーション5006)
心のデボーション5007
「汝かならず之に與ふることを爲べしまた之に與ふる時は心に惜むこと勿れ其は此事のために汝の神ヱホバ汝の諸の事業と汝の手の諸の働作とに於て汝を祝福たまふべければなり」 申命15:10 明治元訳聖書
「あなたは心から彼に与えなければならない。彼に与える時は惜しんではならない。あなたの神、主はこの事のために、あなたをすべての事業と、手のすべての働きにおいて祝福されるからである。」 口語訳聖書
「ほどよい贈り物」
人に与えるとき、物惜しみしてはならないと教えられている。それは惜しくない程度のものを与えよという意味ではない。そういうものは受け取っても役に立たないことが多い。また、惜しむ心を押さえなければならないものを思い切って与えよという意味でもない。度の過ぎたものは受け取る側に気がねが生じる。ほどよいものを与えることができたとき、心に未練は残らない。
(心のデボーション5007)
心のデボーション5008
「『視よ、處女(おとめ)みごもりて子を生まん。その名はインマヌエルと稱(とな)へられん』之を釋(と)けば、神われらと偕に在すといふ意(こころ)なり』」 マタイ1:23 大正文語訳聖書
「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。」 口語訳聖書
「神の傍ら」
「すべての知恵は主から出て、永遠に主とともにある」。(ベン=シラの知恵1:1 フランシスコ会訳聖書)
「永遠に主と共にあるμετ᾽ αὐτοῦ ἐστιν εἰς τὸν αἰῶνα」、バルバロ訳聖書「つねに神の傍らにある」。神の知恵を知るのは、神の傍らにいる者「μετ᾽ αὐτοῦ」である。彼は「神われらと共にいますμεθ᾽ ἡμῶν ὁ θεός」(マタイ1:23)と知る者である。
(心のデボーション5008)
心のデボーション5009
「是はその施濟(ほどこし)の隱れん爲なり。さらば隱れたるに見たまふ汝の父は報い給はん」 マタイ6:4 大正文語訳聖書
「それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」 口語訳聖書
「汗をかかせる」
『12使徒の教え ディダーケー』に「あなたの施しは誰に与えたらよいかわかるまで、両手のうちに温存すべきである」とある。(『ディダーケー』第一章6) 「温存する」はギ語でἱδρόω「両手のなかで汗をかかせる」こと。この語はἰδρώς「汗」に由来する。 施しは誰に与えるかが「分かる」までは両手のうちにしっかりと「温存し、汗をかかせ」、与えるべきときがきたら誰にも知られないところに隠せ。
(心のデボーション5009)
心のデボーション5010
「その上にヱホバの靈とどまらん これ智慧聰明の靈 謀略才能の靈 知識の靈 ヱホバをおそるるの靈なり」 イザヤ11:2 明治元訳聖書
「その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」 口語訳聖書
「主の霊」
「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる」。(イザヤ11:1-2) 地にはえる「エッサイの若枝」に「6つの主の霊」がとどまる。それは「知恵の霊」、「悟りの霊」、「神慮の霊」、「才能の霊」、「主を知る知識の霊」、「主を恐れる霊」である。
(心のデボーション5010)
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