心のデボーション495

デボーション1
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心のデボーション4941

「されど彼いでて此の事を大に述べつたへ、徧く弘め始めたれば、この後イエスあらはに町に入りがたく、外の寂しき處に留りたまふ。人々四方より御許に來れり」 マルコ1:45  大正文語訳聖書

「しかし、彼は出て行って、自分の身に起ったことを盛んに語り、また言いひろめはじめたので、イエスはもはや表立っては町に、はいることができなくなり、外の寂しい所にとどまっておられた。しかし、人々は方々から、イエスのところにぞくぞくと集まってきた。」 口語訳聖書

 「身に起ったこと」

イエスにライ病を癒された男は、「出て行って、自分の身に起ったことを盛んに語り、また言いひろめはじめた」。(マルコ1:45) 「身に起こったこと」は「τὸν λόγον」で、「λόγος」は「ことば、行為、出来事」を意味する。「ことば」は「出来事」であり、「出来事」は「福音」である。「福音」は身におきた、神のことばによる「出来事」をことばで伝えることに他ならない。

(心のデボーション4941)

心のデボーション4942

「すべて我がこれらの言をききて行はぬ者を、沙の上に家を建てたる愚なる人に擬へん。」 マタイ7:26  大正文語訳聖書

「また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。」 口語訳聖書

 「砂の上の家」

現代はものを土台から作るということが少なくなってきている。その意味で、砂の上に家を建てた愚かな人の例えは、私たちにはわかりにくい。ものを苦労して土台から作る必要がないように、自分の人生を土台から考えることがなくなり、どうしたら他人の作った土台に乗せるか腐心するようになる。建ち上がったものの出来栄えよりも、それがどういう土台に据えられているかの方が大切である。嵐に遭遇してからでは遅い。

(心のデボーション4942)

心のデボーション4943

「われ知る我を贖ふ者は活く 後の日に彼かならず地の上に立ん」 ヨブ19:25  明治元訳聖書

「わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。」 口語訳聖書

 「君主は本(もと)を務む」

「君主は本(もと)を務む、本(もと)立ちて道生ず」。(「論語」学而第一 金谷治訳 岩波書店1963/7)

「本(もと)」とは「物事の根本」のこと。「物事の根本が立ち定まれば道は自ずと生じる」という。問題は「物事の根本」とは何かである。孔子はそれを「孝弟(父母につくし、人を敬う、礼節)」に見出すが、さらにその根源を探る必要がありそうだ。ギリシャ語で「根源」は「ἀρχή(初め、発端、原初、原因)」である。

(心のデボーション4943)

心のデボーション4944

「日の下に汝が賜はるこの汝の空なる生命の日の間汝その愛する妻とともに喜びて度生せ 汝の空なる生命の日の間しかせよ 是は汝が世にありて受る分汝が日の下に働ける勞苦によりて得る者なり」 伝道9:9  明治元訳聖書

「日の下で神から賜わったあなたの空なる命の日の間、あなたはその愛する妻と共に楽しく暮すがよい。これはあなたが世にあってうける分、あなたが日の下で労する労苦によって得るものだからである。」 口語訳聖書

 「死ぬ時は一緒に」

夫婦が死ぬ時は一緒に逝けたら、どんなに幸せだろうか。その時がきたら二人で「いい人生だった」と語り合いたい。伝道者は夫婦に、与えられた人生は「むなしい」と告げる。それは、短く、過ぎ去りやすいものだからである。だからこそ「愛する妻と生活を楽しむがよい」と語る。一緒に逝けるかどうかという問題は、どのように一緒に生きるかの問題であろう。死とは、二人の生きた人生の現れに過ぎない。

(心のデボーション4944)

心のデボーション4945

「視よ、わが使をなんぢの顏の前につかはす。 彼はなんぢの前に、なんぢの道をそなへん」 マタイ11:10  大正文語訳聖書

「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう」 口語訳聖書

 「下準備」

「下準備のできている意識に対してのみ偶然は手助けをする」。(ルイ・パスツール(Louis Pasteur)

パスツールは狂犬病のワクチンを開発し、たまたま狂犬に咬まれた少年にワクチンを接種して回復に成功し、その研究が認められた。それは「偶然」ではなく、「下準備がなされていたからこその偶然」であった。パスツールの死後、1940年にナチスがパスルール研究所を接収し、パスツールの墓を暴こうとしたとき、研究所の守衛をしていたヨゼフ・マイスターがパスツールの名誉を守るために墓の鍵を渡さず、自ら命を絶ったという。ゼフ・マイスターはパスツールのワクチンによって狂犬病から回復した三番目の少年であった。

(心のデボーション4945)

心のデボーション4946

「また天より他の聲あるを聞けり。曰く『わが民よ、かれの罪に干らず、彼の苦難を共に受けざらんため、その中を出でよ。』」 黙示18:4  大正文語訳聖書

「わたしはまた、もうひとつの声が天から出るのを聞いた、「わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ。」 口語訳聖書

 「サンタンジェロ城」

「サンタンジェロ城」はイタリヤのサンピエトロ大寺院から700メートルのところにある城塞で、その名はイタリヤ語「 Castel Sant’Angelo」で「聖天使城」からきている。(細き聲ホームページ「俳句・短歌」の俳句・短歌2024/4~2024/6に写真掲載) 城の頂上に大天使ミカエルの像が見える。興味深いのは、そのミカエル像が、剣を鞘に戻す姿であることにある。この像は590年にローマでペストが流行したときに、教皇グレゴリーⅠ世が城の頂上に大天使ミカエルが剣を鞘に納める姿を見て、それをペスト終焉の証しと信じたことからきている。建設当初は大理石製だったが、1753年から青銅製の像として現在に至る。当時の人々にとって、自然の災害は神の審判ととらえられたことを物語る像で、大変興味深い。

(心のデボーション4946)

心のデボーション4947

「また坑をほりてふかくし己がつくれるその溝におちいれり」 詩篇7:15  大正文語訳聖書

「彼は穴を掘って、それを深くし、みずから作った穴に陥る。」 口語訳聖書

 「墓穴を掘る」

狩人はけもの道に穴を掘り、わなを仕掛ける。しかし、「穴」は彼をのみこむと詩人は歌う。悪意ある人は「穴」を掘り、それを深く、そこに敵を誘い込むつもりだ。しかし、彼の「穴」は敵ではなく、彼自身をのむのである。悪意ある人は滅びの原因を自ら作る。したがって、悪意ある人の悪意に腹を立てないことだ。(詩篇37:7)

(心のデボーション4947)

心のデボーション4948

「自ら智しと稱へて愚となり」 ロマ1:22  大正文語訳聖書

「彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、」 口語訳聖書

 「自ら知者と称する者」

「自ら知者と称する者φάσκω(断言する者)」を信用してはならない。彼は神を知りながら、神を崇めす、自らの「智」に酔心し、愚かになり、「神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せる」。(ロマ1:22,23)

(心のデボーション4948)

心のデボーション4949

「汝は施濟をなすとき、右の手のなすことを左の手に知らすな」 マタイ6:3 大正文語訳聖書

「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。」 口語訳聖書

 「感謝の言葉」

「感謝は沈黙を守らなければならない。人は謝するときにも、人から謝せられるときにも、沈黙を土台としていなければならない。むしろ何事もなかったような状態こそ望ましい。感謝の眼差しに比べて、感謝の言葉というものはいつも無細工なものである」(亀井勝一郎 「絶望からの出発」)

(心のデボーション4949)

心のデボーション4950

「それ十字架の言は亡ぶる者には愚なれど、救はるる我らには神の能力なり。」 Ⅰコリント1:18  大正文語訳聖書

「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」 口語訳聖書

 「十字架のことば」

「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」。それは「知者の知恵を滅ぼし賢い者の賢さをむなしいものにする」からである。「十字架のことばὁ λόγος ὁ τοῦ σταυροῦ」とは「十字架の使信」(祥訳聖書 いのちのことば社)の意である。

(心のデボーション4950)

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