心のデボーション4931
「智慧ある者と偕にあゆむものは智慧をえ 愚なる者の友となる者はあしくなる」 箴言13:20 明治元訳聖書
「知恵ある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害をうける。」 口語訳聖書
「愚かな者の友」
「愚かな者の友となる者は害をうけるthe companion of fools(NKJ)」。(箴言13:20) 英語「友となる者companion」の語源は後ラテン語 compāniōn「comともに+パンpanis+ionを食べること」である。「愚かな者の友となる者」とは「愚かな者と共にパンを食べる者」のことである。愚かな者とわけあうパンは旨いかもしれないが「害」がある。ちなみに英語「company会社」は「comともに+パンpanis+yを食べる仲間」を意味する。
(心のデボーション4931)
心のデボーション4932
「汝のみまへには暗ものをかくすことなく 夜もひるのごとくに輝けり なんぢにはくらきも光もことなることなし」 詩篇139:12 明治元訳聖書
「あなたには、やみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます。あなたには、やみも光も異なることはありません。」 口語訳聖書
「闇も光も同じ」
詩人は、神にとっては、「闇も光も同じ」と語る。朝の光は私たちにいのちをふきこむ。しかし、夜の闇もまた、私たちにいのちをふきこむ。私たちには闇と思えるところも、神には光の中と少しもかわらない。それならば、死も恐くはない。私たちにとっては死と思えることも、神にはいのちと少しも違わないはずだからである。神がそばにおられるとき、神と同じ目で闇を見ることができる。
(心のデボーション4932)
心のデボーション4933
「たれかおのれの過失をしりえんや ねがはくは我をかくれたる愆より解放ちたまへ」 詩篇19:12 明治元訳聖書
「だれが自分のあやまちを知ることができましようか。どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。」 口語訳聖書
「過ちて改めざる」
「子の曰わく、過ちて改めざる、これを過ちと謂う」。(「論語」巻第八衛霊公第十五30 金谷治訳 岩波書店1963/7) 他に「過ては則ち改むるに憚ること勿れ」、(学而第一8)「小人の誤つや、必ず文(かざ)る」(子張第十九8)とも言う。すべての過ちは神への逸脱からくる。「文る」は表面を飾る、うわべを取り繕うの意。神への立ち返りのない「改め」はうわべを繕う「文」にすぎない。
「小人の誤つや、必ず文る」(子張第十九8)
(心のデボーション4933)
心のデボーション4934
「美しき所には、物を纏ふの要なし。神は劣れる所に殊に尊榮を加へて、人の體を調和したまへり。」 Ⅰコリント12:24 大正文語訳聖書
「麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。」 口語訳聖書
「イボ」
漂泊の俳人、種田山頭火は流転の人生を新聞記者にとがめられて、「私はイボなんですよ。イボは役にもたたない、しかし、それほどジャマにもならんじゃろ」と答えたそうである。たいていのイボはウイルスが原因で、昔はイボをとるのにイボ草の葉を貼ったが、今は液体窒素で凍らせてとると聞いた。しかし、役にはたたなくてもジャマにしないのが一番いいのかもしれない。それがいのちのやり方である。
(心のデボーション4934)
心のデボーション4935
「神を知りつつも尚これを神として崇めず、感謝せず、その念は虚しく、その愚なる心は暗くなれり。」 ロマ1:21 大正文語訳聖書
「なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。」 口語訳聖書
「暗い心」
「神を知っている者(神を神として認めている者)」の中にも「神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いをむなしくし、その無知な心を暗くする者σκοτίζω」がいる。その暗さは神を信じない者よりも濃い。
(心のデボーション4935)
心のデボーション4936
「されば兄弟よ、われ神のもろもろの慈悲によりて汝らに勸む、己が身を神の悦びたまふ潔き活ける供物として献げよ、これ靈の祭なり。」 ロマ12:1 大正文語訳聖書
「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」 口語訳聖書
「礼とは礼拝の事なり」
「礼とは礼拝の事なり」、「たとえば道路の往違にても、一目もみぬ他国他処の人たり共、我身はわきへより、道よきかたを通し、礼儀をせば、他処の人も無礼なし。かやうなる事を礼拝と云」。(「百姓伝記」百姓伝記二 仁義礼智清信之事 岩波文庫1977/4より) 「礼とは礼拝の事なり」 相手への敬いなくして「礼」はなく、「礼」なくして「礼拝」なし。
(心のデボーション4936)
心のデボーション4937
「汝義に過るなかれまた賢に過るなかれ 汝なんぞ身を滅すべけんや」 伝道7:16 明治元訳聖書
「あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。」 口語訳聖書
「期待を手放す」
母親がわが子にこうあってほしいと期待するのは自然である。しかし、その期待がいつも正しいとは言えない。「正しすぎる母親」は、わが子に期待するのが愛だと信じて疑わない。伝道者は「一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい」と語る。期待を手放すことによって、子どもという「一つをつかみ」、その結果、期待という「もう一つを手放さない」ところに導かれるのではないか。
(心のデボーション4937)
心のデボーション4938
「また自己を證し給はざりし事なし。即ち善き事をなし、天より雨を賜ひ、豐穰の時をあたへ、食物と勸喜とをもて汝らの心を滿ち足らはせ給ひしなり」 使徒14:17 大正文語訳聖書
「それでも、ご自分のことをあかししないでおられたわけではない。すなわち、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである」 口語訳聖書
「精神的セレブ」
「セレブ」という言葉は「celebrity名声、名士」の略である。裕福で、華やかさと優雅さを備えた一流人を指す。1990年代末期からもてはやされるようになった。昔の貴族が血筋を大切にしたのに比べて、現代のセレブは一応誰にでもなれる資格はある。しかし、思ってなれるものでもないが、そろそろ、「精神的セレブ」というものがあってもよいかもしれない。貧しくても豊かさと優雅さを失わない精神的富裕人だ。
(心のデボーション4938)
心のデボーション4939
「汝は施濟をなすとき、右の手のなすことを左の手に知らすな」 マタイ6:3 大正文語訳聖書
「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。」 口語訳聖書
「蜘蛛の糸」
右は左に知らせなくても、右がそれを記憶することがある。芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」のカンダタは血の池の空から銀色の蜘蛛の糸が降りて来たとき、かつて踏み殺すところを思い止めたあの蜘蛛だと気づいたのではないか。カンダタは「右」のしたことを忘れてはいなかった。それが「蜘蛛一匹」を助けたに過ぎず、したがってその糸はいかにも細く、自分一人の重みを支えるにも足りないくらい弱いことを知っていて、「この蜘蛛の糸は己のものだぞ!」と叫ばずにはいられなかったのではないか。「右の手」の記憶がカンダタを再び血の池に戻したのである。
(心のデボーション4939)
心のデボーション4940
「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。」 詩篇121:1 明治元訳聖書
「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。」 口語訳聖書
「山に向かって目を上げる」
日本人は「山」を見るとき、大自然を目の前にして、その豊かさと美しさに、しばしば言葉を失う。しかし、詩人は「山」に、今、自分の前に立ちはだかっている、困難、苦難を重ね、これを創造された神に助けを祈る。「困難も苦難も」神からのものであれば、神の内にはそれを除かれる力があると信じる。
(心のデボーション4940)
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