心のデボーション493

デボーション1
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心のデボーション4921

「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系圖(けいず)。」 マタイ1:1  大正文語訳聖書

「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。」 口語訳聖書

 「イエス・キリストの系図」 

「Βίβλος γενέσεως ᾽Ιησοῦ Χριστοῦイエス・キリストの系図」。(マタイ1:1) ここで「Βίβλος書」と言われるのは、マタイ1:1-17の「イエス・キリストの系図」である。マタイは、そのパピルスに刻まれたであろう短い巻物を「Βίβλος書、本、文書、巻物」と呼ぶ。この家系の名前を綴っただけの系図は、しかし、最も豊かに、かつ力つよく、救い主イエス・キリストを物語る、まさに「神からの書(メッセージ)」である。

(心のデボーション4921)

心のデボーション4922

「喜ぶ者と共によろこび、泣く者と共になけ。」 ロマ12:15  大正文語訳聖書

「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」 口語訳聖書

 「喜ぶ者と共に」

「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣く」のは、単純にできることではない。人が悲しんでいる時にできるのは、自分の悲しみの経験を思い出しながら聞くことくらいである。それでも、「いっしょに」在ることはできるし、深くうなずくこともできる。そして、それ以上のことはいらない。人の喜びや悲しみを分かったふりをする、その偽善的な行為だけは避けたいのである。

(心のデボーション4922)

心のデボーション4923

「なんぢ神の御所爲を讚歎ふることを忘れざれ これ世の人の歌ひ崇むる所なり」 ヨブ36:24  明治元訳聖書

「神のみわざをほめたたえる事を忘れてはならない。これは人々の歌いあがめるところである。」 口語訳聖書

 「賛美」

「人々がほめ歌った神のみわざを覚えて賛美せよ」。(新改訳聖書訳) 「人々の賛美」を忘れてはいけない。共に賛美すれば、彼らが経験した「神のみわざ」にあずかることができる。神の御業を分かち合う友を得よ。

(心のデボーション4923)

心のデボーション4924

「兄弟よ、智慧に於ては子供となるな、惡に於ては幼兒となり、智慧に於ては成人となれ。」 Ⅰコリント14:20  大正文語訳聖書

「兄弟たちよ。物の考えかたでは、子供となってはいけない。悪事については幼な子となるのはよいが、考えかたでは、おとなとなりなさい。」 口語訳聖書

 「おとな」

長いこと同じ車を運転していると、いつしか車の方が私のクセをマスターしてくれるようだ。聖書の「おとなτέλειος」は自分を完成した人という意味である。それは欠点のない完璧な人間ではない。「私という車」が長い時間をかけて、欠点もあり弱さもあるクセの悪い自分を受け入れ、仕上げていくようなものだ。人にはわからないかもしれないが、この感じは悪いものではない。

(心のデボーション4924)

心のデボーション4925

「これは朝ごとに新なり なんぢの誠實はおほいなるかな」 哀歌3:23  明治元訳聖書

「これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。」 口語訳聖書

 「正しく疑う」

「否定することと、信じることと、正しく疑うこととは、人間にとって、馬にとっての走ることと同じである」。(パスカル「パンセ」260前田陽一・由木康訳 中央公論社1973) 「信じること」と「正しく疑うこと」は切り離すことができない。「正しく疑う」ことなしには「真実」に近づけないからだ。

(心のデボーション4925)

心のデボーション4926

「彼に居ると言ふ者は、彼の歩み給ひしごとく自ら歩むべきなり。」 Ⅰヨハネ2:6  大正文語訳聖書

「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。」 口語訳聖書

 「キリストにおる」

「キリストにおる」者は「彼〔キリスト〕が歩かれたように、歩む」。(Ⅰヨハネ2:6) 「歩むπεριπατέω」は「歩き回る、徘徊する、ぶらぶら歩く、散歩する」からきた言葉である。まずは、イエス・キリストの周辺を「歩き回る、徘徊する、ぶらぶら歩く、散歩する」がよい。いつの間にか、主の内におることができてくる。

(心のデボーション4926)

心のデボーション4927

「されど主われと偕に在して我を強めたまへり。これ我によりて宣教の全うせられ、凡ての異邦人のこれを聞かん爲なり。而して我は獅子の口より救ひ出されたり。」 Ⅱテモテ4:17  大正文語訳聖書

「しかし、わたしが御言を余すところなく宣べ伝えて、すべての異邦人に聞かせるように、主はわたしを助け、力づけて下さった。そして、わたしは、ししの口から救い出されたのである。」 口語訳聖書

 「行動を起こす」

考えれば考えるほど動けなくなることがある。しかし、それは深く考えたから動けないのではなく、動かなくてもすむように思い悩んでいるからではないか。人は行動を起こさなくてもすむような、適当な理由を見つけようとして問題を掘り下げることもする。ほどほどに考えたら、行動に移してみる。行動すると本当に考えるべきことが見える。少しくらい問題があっても、動いてみれば何でもなかったということもある。主は今も歴史の中に働かれる神である。「主はわたしを助けπαρίστημι」は「来て側に立たせる」の意である。

(心のデボーション4927)

心のデボーション4928

「アダムより七代に當るエノク彼らに就きて預言せり。曰く『視よ、主はその聖なる千萬の衆を率ゐて來りたまへり。』」 ユダ1:14  大正文語訳聖書

「アダムから七代目にあたるエノクも彼らについて預言して言った、「見よ、主は無数の聖徒たちを率いてこられた。」 口語訳聖書

 「無数の聖徒たち」

世に「夢に迷わされて肉を汚し、権威ある者たちを軽んじ、栄光ある者たちをそしっている」人々は多い。しかし、ユダ書は「見よ、主は無数の聖徒たちを率いてこられた」というエノクの預言を告げる。(旧約聖書外典エノク書より) 新改訳聖書、大正文語訳聖書は「千萬」と訳すがμυριάςは数字的には「1万」で、「千万」の意はない。聖徒の数字的な意味よりも、「無数の」を意味であろう。地に悪がはびころうと、そこには無数の聖徒たちがキリストとともにあることをわすれてはならない。 

(心のデボーション4928)

心のデボーション4929

「汝は施濟をなすとき、右の手のなすことを左の手に知らすな」 マタイ6:3 大正文語訳聖書

「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。」 口語訳聖書

 「祝福の行為」

鳥占いで右方に鳥が飛ぶと吉兆とされ、右が幸運を約束した。幸運をもたらす「右」のすることを縁起の悪い「左」に知らせては、せっかくの吉兆を凶兆の知るところになる。したがって、「右の手のなすことを左の手に知らすな」は「祝福の行為を吉凶とするな」とも読める。

(心のデボーション4929)

心のデボーション4930

「また燈臺の間に人の子のごとき者ありて、足まで垂るる衣を著、胸に金の帶を束ね、」 黙示1:13  大正文語訳聖書

「それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。」 口語訳聖書

 「七つの金の燭台」

ヨハネは幻のうちに「ラッパのような大きな声」が「あなたが見ていることを書きものにして、それをエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤにある七つの教会に送りなさい」と語るのを聞き、「ふりむく」と、「七つの金の燭台」の間に立つ「足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者」を見た。7つの教会はそれぞれが7つの枝に分かれた一つの燭台であり、異なる地に建てられた7つ教会が一つの燭台として地を照らす光であることを示す。「人の子のような人(イエス・キリストの象徴)」が燭台の間に立って、燭台の光の中にいた。

(心のデボーション4930)

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