心のデボーション490

デボーション1
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心のデボーション4891

「請ふ汝過にし代の人に問へ 彼らの父祖の尋究めしところの事を學べ」  ヨブ8:8  明治元訳聖書

「先の代の人に問うてみよ、/先祖たちの尋ねきわめた事を学べ。」 口語訳聖書

 「大学」

「大学university」はラテン語「unum一つの+vertere向ける」に由来し、「一つのものに向けられる」の意である。

当初は「一つの仕事に関わるグループ」、すなわち「同業者の組合」を意味したが、やがて、「教師と学生が一つの方向に一体となる大学」を指すようになった。学生にとっては、「自己の方向」を見出す学びの場である。

(心のデボーション4891)

心のデボーション4892

「この犬はむさぼること甚だしくして飽ことをしらず かれらは悟ることを得ざる牧者にして皆おのが道にむかひゆき 何れにをる者もおのおの己の利をおもふ」 イザヤ56:11  明治元訳聖書

「この犬どもは強欲で、飽くことを知らない。彼らはまた悟ることのできない牧者で、皆おのが道にむかいゆき、おのおのみな、おのれの利を求める。」 口語訳聖書

 「足りない」

人は足りないと知らなければ求めることをしない。しかし、足ることを知らないのは、自分を見失う不安から、求めることしか知らない貪欲な人でる。あるがままの自分に足りることができて、はじめて、自分を足りないと知る。赤裸々な自分になってみなければ、神の前に立つことができないす。神は足りないと知る心にだけ語りかけられるのである。

(心のデボーション4892)

心のデボーション4893

「汝ら怒るとも罪を犯すな、憤恚を日の入るまで續くな。」 エペソ4:26  大正文語訳聖書

「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。」 口語訳聖書

 「慍みず」

「人知らずしてて慍みず、亦た君子ならずや」。(「論語」学而第一 金谷治訳 岩波書店1963/7) 「慍(うら)みず」は「慍おらず(いきどおらず)」とも訳される。朱注「慍は怒を含む」。神に知られるをもって満足する者は、人に知られずとも気にかけない(怒らない、いきどおらない)、いかにも君主である。

(心のデボーション4893)

心のデボーション4894

「ただ汝らの衷に神を愛する事なきを知る。」 ヨハネ5:42  大正文語訳聖書

「しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。」 口語訳聖書

 「うそから出た愛」

「それはやっております。私たち夫婦は誰よりも息子のことを心配しているのですから」という言葉にうそはない。しかし、そこに見せかけの善良さはないだろうか。これだけのことをしてあげたのは、自分たちが息子を深く愛しているからだと思いたがっているだけではないか。うそから出る愛ほど子どもの心を傷つけるものはない。この場合、何かをしてあげることよりも、何もしないのが愛かもしれない。

(心のデボーション4894)

心のデボーション4895

「されば汝らは此等のことを知り、既に受けたる眞理に堅うせられたれど、我つねに此等のことを思ひ出させんとするなり。」 Ⅱペテロ1:12  大正文語訳聖書

「それだから、あなたがたは既にこれらのことを知っており、また、いま持っている真理に堅く立ってはいるが、わたしは、これらのことをいつも、あなたがたに思い起させたいのである。」 口語訳聖書

 「真理」

真理は「知っているοἶδα」だけでなく、「堅く立つὑπομιμνῄσκω」ことが必要である。「堅く立つὑπομιμνῄσκω」は「思い出す、想起する」の意。真理は、繰り返し思い出すことを通して堅く立つ。

(心のデボーション4895)

心のデボーション4896

「御子は神の榮光のかがやき、神の本質の像にして、己が權能の言をもて萬の物を保ちたまふ。また罪の潔をなして、高き處にある稜威の右に坐し給へり」 へブル1:3  大正文語訳聖書

「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。」 口語訳聖書

 「キャラクター」

「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿ὃς ὢν ἀπαύγασμα τῆς δόξης καὶ χαρακτὴρ τῆς ὑποστάσεως αὐτοῦ」。(へブル1:3) 「神の本質の真の姿χαρακτὴρ τῆς ὑποστάσεως」は「神の本質の完全な現れ」。(新共同訳聖書訳)祥訳聖書「〔神の〕本質の完全な刻銘<かたちそのもの>」。「性格」を意味する英語characterはこのギ(真の姿)リシ語χαρακτήρας「刻まれたしるし」に由来する。キャラクター「性格」は人に「刻み込まれ」、その人の本質をあらわずものである。好き嫌いの対象でも、変えることのできるものでもない。

(心のデボーション4896)

心のデボーション4897

「パウロ議會に目を注ぎて言ふ『兄弟たちよ、我は今日に至るまで事毎に良心に從ひて神に事へたり』」 使徒23:1  大正文語訳聖書

「パウロは議会を見つめて言った、「兄弟たちよ、わたしは今日まで、神の前に、ひたすら明らかな良心にしたがって行動してきた」。」 口語訳聖書

 「良心の人」

良心的な人は自分に厳しい分、他人にも厳しくなる傾向がある。しかし、ギリシャ語の「良心συνείδησις」は「共に見る」という意味がある。人の罪を責める前にまず自分を問う。「共に見る」は「共に知る」ことだからである。人に向かう前に自分を見て、自分自身を告発する。「人と共に」あろうとするのが良心の人である。パウロが望んだのはそういう生活であった。

(心のデボーション4897)

心のデボーション4898

「ヱホバよわれ知る人の途は自己によらず且歩行む人は自らその歩履を定むること能はざるなり」 エレミヤ10:23 明治元訳聖書

「主よ、わたしは知っています、人の道は自身によるのではなく、歩む人が、その歩みを自分で決めることのできないことを。」 口語訳聖書

 「人の道」

「人の道は自身によるのではない」。(エレミヤ10:23) 神に信頼する者は「右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く」。(イザヤ30:21) 神は「道」を明らかにされ、その道を行くいのちをお与えくださる。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。(ヨハネ14:6)

(心のデボーション4898)

心のデボーション4899

「さらば施濟をなすとき、僞善者が人に崇められんとて會堂や街にて爲すごとく、己が前にラッパを鳴すな。誠に汝らに告ぐ、彼らは既にその報を得たり」 マタイ6:2 大正文語訳聖書

「だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。」 口語訳聖書

 「賞賛のかがり火」

「崇められんとてδοξάζω」を明治元訳聖書は「人の榮(あがめ)を得ん爲に」と訳す。「榮」という漢字は燃えるたいまつを組み合わせている。さかんに輝くかがり火で木をとりまくこと。偽善者は自分を「賞賛のかがり火」で照らして欲しくて「施し」をする。

(心のデボーション4899)

心のデボーション4900

「朝まだき暗き程に、イエス起き出でて、寂しき處にゆき、其處にて祈りゐたまふ。」 マルコ1:35  大正文語訳聖書

「朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」 口語訳聖書

 「寂しい所」

イエスは常に、祈るために適切な場所を求められた。それは「早朝の、寂しい所」であった。「寂しい所ἔρημος」は「人の住まない所、荒野、砂漠」の意。「一人になれる所、一人に成れる時間」ならどこでも、いつでも、そこが神と語らう場であり時である。

(心のデボーション4900)

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