心のデボーション4861
「われらのたましひはヱホバを侯望めり ヱホバはわれらの援われらの盾なり」 詩篇33:20 明治元訳聖書
「われらの魂は主を待ち望む。主はわれらの助け、われらの盾である。」 口語訳聖書
「ヴァニタス」
イタリヤのバルベリーニ国立古典絵画館にある一枚の絵「ヴァニタス」には、着飾った美しい女性が右手で机の上の頭蓋骨を指さし、左手で鏡をこの絵を覗く者の顔が映る位置に向けて持ち、その様子をじっと見つめている。頭蓋骨は死を、ランプは時の短さを、ランプと彼女の右手が映る鏡面は黒く塗られて死の暗黒をあらわし、「あなたも私も今は若くても、やがてこうなるのよ」と語っているようだ。机の上の砂時計はその時が迫っていることを告げる。
(心のデボーション4861)
心のデボーション4862
「互に仁慈と憐憫とあれ、キリストに在りて神の汝らを赦し給ひしごとく、汝らも互に赦せ。」 エペソ4:32 大正文語訳聖書
「互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。」 口語訳聖書
「心の優しい人」
「心の優しい人εὔσπλαγχνος」というギリシャ語は「強いはらわた」という不思議なことばである。ストレスがたまると胃の調子が悪くなる私は、「心が優しくないからかなぁ」などと考えてしまう。そうではなく、ヘブル思想では「内臓は人間の深い感情の宿る所」と考えられ、「強いはらわた」は「切なるあわれみ」を意味する。「心の優しい人」は相手の感情が自分の「はらわた」でわかる人で、相手を自分の「はらわた」で思うことのできる人のことである。
(心のデボーション4862)
心のデボーション4863
「生るるに時あり死るに時あり 植るに時あり植たる者を抜に時あり」 伝道3:2 明治元訳聖書
「生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、」 口語訳聖書
「ケイローン」
ギリシャ神話のケイローンは洞窟に棲み、薬草を栽培し、病人を助ける不死のケンタウロス族であったが、ヘラクレートスとケンタウロスの争いに巻き込まれ、誤ってヘラクレイトスの放つ毒矢を膝にうけ、不死のために終わりのない苦しみから逃れるため、不死の能力をプロメテウスに譲り、死を選んだ。「死」は、しばしば、終わりのない肉体的な苦悩から人を解放する。
(心のデボーション4863)
心のデボーション4864
「この故に若しキリストによる勸、愛による慰安、御靈の交際、また憐憫と慈悲とあらば、」 ピリピ2:1 大正文語訳聖書
「そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、」 口語訳聖書
「五十四の失敗」
失敗したら、その分、前進できたと考えてさしつかえない。「本」を印刷から製本まで、すべてを自分の手でしてみたが、大小とり混ぜて五十四の失敗があった。しかし、私は幸せだった。それは、五十四の自分に出会うことだったからである。「励ます」ということばは、「側に呼ぶ」の意味である。失敗のたびに、キリストの側に「呼ばれ」たのである。
(心のデボーション4864)
心のデボーション4865
「汝等みづから心せよ、恐らくは飮食にふけり、世の煩勞にまとはれて心鈍り、思ひがけぬ時、かの日羂のごとく來らん」 ルカ21:34 大正文語訳聖書
「あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい。」 口語訳聖書
「思い煩い」
「世の煩いのために心が鈍っている」。(ルカ21:34) 「心が鈍るβαρέω」は「眠たさに目が重くなる」の意味がある。新改訳聖書「沈み込んでいる」。「この世の煩い(日常生活のもろもろの心配事)」で、心が重く塞がれると、心が沈みこみ、敏感な思いが鈍り、神の時が見えなくなる。
(心のデボーション4865)
心のデボーション4866
「神を愛する者、すなはち御旨によりて召されたる者の爲には、凡てのこと相働きて益となるを我らは知る」 ロマ8:28 大正文語訳聖書
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」 口語訳聖書
「愚公」
「愚公山を移す」は「列子・湯問編」にあるお話で、北山愚公という老人が自宅に近く太行山と王屋山が立ちはだかり、不便なことから山を崩しはじめ、それを見た智叟が人の手で山を崩せるはずがないと批判すると、愚公は子々孫々が掘り続ければ出来ると言い返し、これを聞いた天帝が助力し、遂に山を動かしたことから来る。現代ならば巨大な掘削機であっという間にトンネルを掘るので、「山を動かす」必要はない。そのためか、社会から「愚公」がいなくなってしまったのは寂しい。神の「ご計画πρόθεσις」は「目の前に置かれる」の意で、「太行山と王屋山」は目の前にある。
(心のデボーション4866)
心のデボーション4867
「萬軍のヱホバかくいひたまふ是民はヱホバの殿を建べき時期未だ來らずといへり」 ハガイ1:2 明治元訳聖書
「万軍の主はこう言われる、この民は、主の家を再び建てる時は、まだこないと言っている」 口語訳聖書
「現状をよく考えよ」
「今はまだ、行動の時ではない」と言い訳しながら、一歩も動こうとしない人に、予言者ハガイは「あなたがたの現状をよく考えよ」と迫る。「板張りの家」に住み、快適な暮らしをしている。しかし、種を蒔いても少ししか収穫できず、食べても飽き足らず、着物を着ても少しも暖まらない。それが、「時」の何よりの「しるし」である。自らの「現状」をよく考えて、在り方を変えなさい。主の宮を建てる時である。
(心のデボーション4867)
心のデボーション4868
「如何なれば艱難にをる者に光を賜ひ 心苦しむ者に生命をたまひしや」 ヨブ3:20 明治元訳聖書
「なにゆえ、悩む者に光を賜い、/心の苦しむ者に命を賜わったのか。」 口語訳聖書
「未だ生を知らず」
孔子は季路の「敢て死を問う」に応えて「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」と語った。(「論語」先進第十一11) 人間は死を経験するが、死を知らず、ただ生の中で死を知るのみである。その生を「未だ知らず」、知ることを求める者である。生と死の秘密を知るのは神のみであり、生と死の祝福は神から来る。
(心のデボーション4868)
心のデボーション4869
「さらば施濟をなすとき、僞善者が人に崇められんとて會堂や街にて爲すごとく、己が前にラッパを鳴すな。誠に汝らに告ぐ、彼らは既にその報を得たり」 マタイ6:2 大正文語訳聖書
「だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。」 口語訳聖書
「ラッパを吹く」
「ラッパ」はいたるところで吹かれる。「祈り」のときにさえ人は「ラッパ」を手放さない。あたかもこれから戦争が始まるかのように厳かにラッパを吹く。祈りは隠れた部屋での静かな神との語らいである。
(心のデボーション4869)
心のデボーション4870
「空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に收めず、然るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ。汝らは之よりも遙に優るる者ならずや。」 マタイ6:26 大正文語訳聖書
「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。」 口語訳聖書
「ハナダイ」
養老孟司さんの「涼しい脳味噌」に性転換する「ハナダイ」のお話がある。「ハナダイ」という熱帯魚は群れの全部がメスで、一匹のオスが先頭をおよぐ。オスが死ぬと、メスの一匹がオスに性転換する。(養老孟司「涼しい脳味噌」文芸春秋1991/10より) この「ハナダイ」は「キンギョハナダイ」で、「真鯛」とは別物で、雌性先熟の雌雄同体で生まれたときはすべて雌で群れをつくり一匹が雄になってハーレムをつくる。雄がいなくなると、群れの中の力のある雌が新しい雄に性転換するのである。いのちは生きるためにあらゆることをする。
(心のデボーション4870)
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