心のデボーション486

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心のデボーション4851

「われ墓にくだらばわが血なにの益あらん 塵はなんぢを讃たたへんや なんぢの眞理をのべつたへんや」 詩篇30:9  明治元訳聖書

「わたしが墓に下るならば、わたしの死になんの益があるでしょうか。ちりはあなたをほめたたえるでしょうか。あなたのまことをのべ伝えるでしょうか。」 口語訳聖書

 「骸骨寺」

ローマの「聖マリヤ処女懐胎教会Santa Maria della Concezione dei Capucchini(1626年10月創建)」は「骸骨寺」とよばれ、その地下に1528年から1870年までの350年間に亡くなった4000人以上のカプチン会修道士の骨が飾られた5つの礼拝堂がある。その入口にはラテン語で「noi eravamo; quello che noi siamo voi(われわれはあなたがたと同じだった、あなた方もわれわれと同じようになるだろう)」と刻まれている。修道士たちの死は空しいものではなく、むしろ、その栄光を語りかけているのではないか。

(心のデボーション4851)

心のデボーション4852

「この故に我らは落膽せず、我らが外なる人は壞るれども、内なる人は日々に新なり。」 Ⅱコリント4:16  大正文語訳聖書

「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。」 口語訳聖書

 「向こう三十年分」

木彫りの平櫛田中さんは百二才のとき彫る木がきれた。そこで弟子がどれくらいの量を注文したらいいか迷い、「何年分買いましょうか?」と尋ねると、「すまんけど、向こう三十年分を」と答えたそうである。百二才の木彫り師が向こう三十年間分を手当したことよりも、百二才になって、なお、三十年間分のイメージをもつことに感動する。「内なる人」の若い人は、「外なる人」も若いのかもしれない。

(心のデボーション4852)

心のデボーション4853

「答へて言ふ「主よ、今年も容したまへ、我その周圍を掘りて肥料せん。」 ルカ13:8  大正文語訳聖書

「すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。』」 口語訳聖書

 「モラトリアム人間」

「モラトリアム人間」は心理学研究小此木圭吾教授によって「『より大きな、自己を超えたものは何か』に対する同一化によって獲得されるアイデンティティ(同一性)を確立するまでの準備・猶予の時期」と定義された、「いつまでもこの準備・猶予の状態に居続け、アイデンティティを確立しない人間のことである」。(小此木啓吾「モラトリアム人間の心理構造」中央公論新社1979/7) 

「モラトリアムmoratorium」は「債務者に支払いを猶予する」というラテン語moratoriusに由来する法的用語で、災害時に政府等による支払いの一時停止・猶予、またその期間を意味する語であったが、アイデンティティの確立をしようとしない心理的自己意識の一形態を指す用語となった。

モラトリアムは、いつかその期間が終わることを告げる時が来ることを示す言葉であることを忘れるべきではない。

(心のデボーション4853)

心のデボーション4854

「うれひ人の心にあれば之を屈ます されど善言はこれを樂します」 箴言12:25  明治元訳聖書

「心に憂いがあればその人をかがませる、しかし親切な言葉はその人を喜ばせる。」 口語訳聖書

 「人を喜ばす」

その人はスーパーで買い物カゴをさげた知人に出会った。すると彼女は「いつもお世話になって」と言いながら、自分のカゴから一品を取り出してその人のカゴに入れてくれた。お礼を言って別れたのだが、レジでその代金を払わなければならなかった。代償をきちんと払わせられる親切というのもある。自分のした親切の行為を忘れるのも親切である。しかし、本当にその人を喜ばせたのかを見届けるのも親切である。

(心のデボーション4854)

心のデボーション4855

「汝らの中たれか櫓を築かんと思はば、先づ坐して其の費をかぞへ、己が所有、竣工までに足るか否かを計らざらんや」 ルカ14:28 大正文語訳聖書

「あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。」 口語訳聖書

 「腰を据えて」

「邸宅を建てようと思う者」は「まず、すわってその費用を計算しないだろうか」。(ルカ14:28) 「すわって

καθίζω」は「腰をすえて(新共同訳聖書)」である。事を始める者は、まず、腰をすえて、ことの終り(完成)を見通し、それに必要なものを手配しなければならない。いわんや「神のことば」をこそ。

(心のデボーション4855)

心のデボーション4856

「されど神は智き者を辱しめんとて世の愚なる者を選び、強き者を辱しめんとて弱き者を選び、」 Ⅰコリント1:27  大正文語訳聖書

「それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、」 口語訳聖書

 「愚かな者」

「神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれる」。(Ⅰコリント1:27) 「愚か者μωρός」は「愚かな、馬鹿な、ぐずの、のろのろした、気の抜けた、味のない者」、「弱い者ἀσθενής」は「虚弱な、病気の、病弱な、無力の、貧しい、貧弱な者」、すなわち、「私」のことである。

(心のデボーション4856)

心のデボーション4857

「そのとき笑はわれらの口にみち歌はわれらの舌にみてり ヱホバかれらのために大なることを作たまへりといへる者もろもろの國のなかにありき」 詩篇126:2  明治元訳聖書

「その時われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされた。その時「主は彼らのために大いなる事をなされた」と/言った者が、もろもろの国民の中にあった。」 口語訳聖書

 「笑いながら」

実は、一度だけ百メートル競争の選手に選ばれたことがある。何かの間違いだったのだが、どうしたわけか断われなかった。目をかたく閉じ、息をつめ、死ぬかと思うほど苦しく走った。結果がどうであったかは言いたくない。カール・ルイスは、八十メートルあたりで意識的に笑うのだそうである。笑いながら走ると好成績が出せるということである。苦しいときに笑う、神が与えて下さるものの中で最も不思議な力ではないか。私の場合は走り終わってから笑った。

(心のデボーション4857)

心のデボーション4858

「善く執事の職をなす者は良き地位を得、かつキリスト・イエスに於ける信仰につきて大なる勇氣を得るなり。」 Ⅰテモテ3:13  大正文語訳聖書

「執事の職をよくつとめた者は、良い地位を得、さらにキリスト・イエスを信じる信仰による、大いなる確信を得るであろう。」 口語訳聖書

 「勇気」

「金を失うのは人生の半分を失うことだ。しかし勇気を失うのは人生のすべてを失うことだ」。(タルムード)

「勇気」を意味する英語 courageはラテン語cor(心)からきて「危険や困難に恐れずに立ち向かう心の質、勇気」を意味する。「勇気」を意味するギリシャ語ἀνδρείαは使徒アンデレ᾽Ανδρέας (男らしい)」からきた言葉で「恐怖、不安をおさえて自分の信念を貫く勇気、男らしさ」を意味する。たとえ、人生の半分を失っても、これがあれば何とかなる。

(心のデボーション4858)

心のデボーション4859

「さらば施濟をなすとき、僞善者が人に崇められんとて會堂や街にて爲すごとく、己が前にラッパを鳴すな。誠に汝らに告ぐ、彼らは既にその報を得たり」 マタイ6:2 大正文語訳聖書

「だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。」 口語訳聖書

 「餓えた人々」

現代、世界では地球の全人口を養うに十分な食糧が生産されているという。問題は食糧がないのではなく、目の前にある食糧を買う金のない餓えた人々(πεινάω)がいることである。そして、飢餓の国から食糧が豊かな国に輸出され、その為に飢餓がおこることである。飢餓は人間の問題である。「施し」を行うのも受けるのも難しい時代に入った。しかし、「あなたはどうするのか?」という声に耳を塞ぐことは許されない。(マタイ6:2)

(心のデボーション4859)

心のデボーション4860

「なんじら先づ知れ、聖書の預言は、すべて己がままに釋くべきものにあらぬを。」 Ⅱペテロ1:20  大正文語訳聖書

「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。」 口語訳聖書

 「解釈」

「聖書の預言」は「自分勝手に解釈すべきでない」。(Ⅰペテロ1:20) 「自分勝手に解釈ἰδίας ἐπιλύσεως」は「自分の、私有の、個人的な」の意、NKJ private interpretation。Privateはラテン語 privatus「公的なものから分けられる、自分自身のものとして持つ」に由来し、その動詞 privareは「奪う、剥奪する、盗む」から「分離された、切り離された、個別の」の意である。この原則は「預言」に限定されず、御言葉全体に適応される。聖書は聖書をもって解釈されるべきである。

(心のデボーション4860)

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